主日のミサが、基本月2回となり、他の日曜日は集会祭儀となりました。集会祭儀は、神父の説教の代わりに、信徒である「集会祭儀の司会者」によって、佐藤神父の教話が読み上げられます。

2026年7月12日

 

わたしたちの周りの大きな世界の中で、毎週のように起こることは、わたしたちの個人的な生活という小さな世界でも同じように起こっています。振り返れば、失敗や良いことを逃した機会、周囲の人を扱いにくくさせてしまった自分勝手な振る舞い、不十分な仕事などが思い浮かぶでしょう。しかし、誰かを幸せにしようとする努力、しっかりと成し遂げた仕事、喜びや祝祭のひととき、そして神とつながろうとする努力など、感謝すべき良い出来事もたくさんあるでしょう。

わたしたちはミサの中で、その週の最高の「良い知らせ」を耳にします。一週間を終え、聖なる場所、すなわち神の祭壇に集まっています。そこで「ことばの典礼」を通じ、この一週間やわたしたちの人生について神がどう考えておられるかを聞くのです。わたしたちには、何が真に現実であるかを明確に悟らせ、わたしたちをより良い方向へと力強く変えてくれるような、力強く有効な「ことば」が必要です。これこそ教会が典礼の中で祝う「神のことば」という偉大な贈り物なのです。

わたしたちが「神のことば」と言うとき、それは単に書物の中に記された、死んだ文字を指しているわけではありません。「ことば」という表現は、生きたことばを語る「話し手」の存在を示唆しています。キリスト・イエスこそが神の生きた「ことば」であり、ペトロが言うように、そのことばは永遠に生きています。キリストは教会の中に生き続けておられます。典礼の中で、司祭や朗読者がそのことばを語るとき、彼らを通してキリストご自身がわたしたちに語りかけておられるのです。

キリストの心を持つ者へと成長するためには、キリストのことばに耳を傾けなければなりません。今日の福音の中でイエスが語っておられるように、わたしたちは皆、そのことばによって「回心」させられることを恐れたり、耳を傾けるのをためらったりするのです。そのような変化は、時に痛みを伴う過程となり得るからです。ここで言う「聴く」とは、神のことばを批判的に分析したり、すぐに実践に移そうとしたりすることではありません。それは、ことばそのものだけでなく、そのことばを通してわたしたちに問いかけておられるキリストを受け入れることを意味します。耳だけでなく心までも、そのことばを聴くのです。

神のことばを心に深く受け止めることは、わたしたちを変える力を持っています。そのことばは、決してむなしく神のもとへ帰ることはありません。例えば、主のことばの一つである「裁いてはならない」という教えを、自らの行動の指針にすることにします。そうすれば、どれほど慈悲深く、理解ある人間にわたしたちはなれるでしょう。その真理は、人との関係を損なう「軽率な裁き」という弊害から、わたしたちを解放してくれるはずです。

キリスト者は、神のことばをよく聴き、それを深く思い巡らすよう招かれています。また、それに応答することも必要です。もちろん、神のことばを聴くことには難しさもあります。そのことばは、現代とは異なる古い文化の様式や当時の生活の中の出来事を用いてわたしたちに届けられるからです。

今日の福音では種まきのたとえが述べられています。おそらくイエスはこのたとえを実際に畑で種まきしている人を見て語られたのではないかと思います。当時の人々はそれを見ながらイエスの話を聞いていたのでよく理解できたのではないでしょうか。今の農業と違い、当時はまず畑に種をまき、それから道になっているところや石だらけのところやいばらの生えているところをまとめて耕したのでしょう。それによって地中深く種が入り、干からびることなく育つようにしたようです。

種という福音をまく人はイエスです。その種をわたしたちが受け入れ実を結ぶかどうかが大切なことです。福音の種はすべての人にまかれています。その種をまくイエスはどこにでも蒔いています。大切なことは、それぞれの人の心にまかれた福音の種が実を結ぶことです。キリストを信じる者の役割はその種を芽生えさせることにあります。単にキリストが示された永遠のいのちを述べ伝えるのではありません。それを言うのは神のことばであるキリストです。わたしたちはそれを信じて生きていくのだという姿勢を人々に示すことによって、人々にまかれた種を芽生えさせるよう促すのです。

わたしたち自身もキリストによってまかれた種がどのように実を結んでいるのかが気になるでしょう。わたしたちはキリストを信じてここに集っていますから、芽が出て根をはり、実が結ぶように成長しているという段階だと言えるでしょう。次の段階として、ほかの人に蒔かれた種が育つように促していくことがわたしたちには求められることです。

第一朗読のイザヤの預言でも、わたしたちに神のことばを理解して行動することが望まれています。雨や雪は大地を潤し、食物という恵みとなります。同じように神のことばに信頼し、神の使命を果たして、大きく実を結ぶことが望まれているのです。

 

今日の福音の最後に「御言葉を聞いて悟る人は・・・(大きな)実を結ぶ」と語られています。人はそれぞれの弱さによって、自分一人では福音の種があっても十分に実を結ばせることができません。あるいは福音の種を持っていることにさえ気づかない人もいるでしょう。そのために持っている福音の種を芽生えさせるようにお互いに協力していくことがわたしたち信者には求められているのです。

 

 

2026年5月30日

 

旧約の時代モーセは、神と直接会って、神にお願いしています。「主よ、わたしたちの中にあって進んでください」とあります。これは神が共に歩んでくださるなら、わたしたちも歩んで行けますということです。ですから、神が共に歩んでくださることがイスラエルの民の望みなのです。イエスの時代、イエスご自身が弟子たちと共にいてくださっています。神がイエスをこの世に派遣してくれたのです。イエスは十字架につけられて死にましたが復活し、40 日間弟子たちに現れた後に天に昇って、50 日目に聖霊を派遣してくれました。今も聖霊はわたしたちに送られていて、わたしたちとともに歩んでいます。わたしたちは「父と子と聖霊」による洗礼を受けました。ミサの初めに十字を切りますが、そのたびごとに洗礼の恵みに感謝するわけです。

今日の福音はとても短いところですが、実際はニコデモとの対話として3 1 節から21 節までの長い対話の中の一部となっています。3 回の問答を通してニコデモはイエスがどのようなお方であるかを理解して行きます。これはわたしたちにも向けられたものと言えます。16 節は神の愛を述べているところです。ここに書かれているとおり、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」に神は世に与えたのです。まずここに神の愛がわたしたちのために注がれているのだということが分かります。神は自分の力を誇示したいとか、宇宙を支配したいとか、自分の思い通りにしたいというような人間的な気持ちはありません。ご自分の独り子をわたしたちに与えられたほどに、世を愛されたのです。

「世」というのは、この世界です。この世界は今でも人間が自分のことだけを考えて、あるいは自分の所属しているグループのことだけ考えている罪の世です。ニュースを見ればわかりますね。自分さえよければいいという世界になっています。その世の中でイエスは、病気で苦しんでいる人や貧しい人に手を差し伸べて、自分の「とき」をそういう人々のために使いました。逆に権力を持った人々や律法学者などに、自分のことばかり考えることを非難していました。そういう人々に対して神の力を発揮することではなく、十字架の死をあえて受け入れて死んでいきました。その姿は惨めなものに映りましたが、復活という出来事によって栄光を受けました。わたしたちも同じ姿に与ることができるのです。

17 節では「世を裁くためではなく、世が救われるためである」と言っています。ところが18 節では、世にいる「信じる者は裁かれず、信じない者はすでに裁かれている」と言っています。御子は救うために来たが、信じない者は裁かれていると言うのです。この裁きというのは神やイエスが裁くものではありません。自分自身が自分を裁くのです。自分自身で自分を罪に定めているのです。

 

素晴らしい美しい有名な絵があったとします。この素晴らしさを知っている人はもちろん感動します。始めて見る人でも素晴らしいものであれば感動するでしょう。もし感動しないで大したことのない絵だと思う人がいたらどうでしょう。残念に思いますね。一緒にこの感動を分かち合いたいと思っていてもそういう人とは分かち合えません。自分で自分自身を罪に定めるというのはこういうことに似ているかもしれません。

 

 

2026年5月10日

 

イエスは「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」と言われました。イエスご自身は皆さんの目に見える形ではいなくなるが、別の弁護者があなたがたとともにいるようになると言います。これは聖霊の派遣です。父である神とともにイエスが聖霊を派遣するのです。

聖霊が一緒にいるというのはイエスがわたしたちのうちにいることと同じことなのだということが、今日の聖書のことばから分かります。聖霊がわたしたちのうちに働かれる神の力です。また、復活したイエスが目に見えない形でわたしたちのうちにおられ、わたしたちを支え導いていくのです。どちらが支えているかというよりも、どちらにも支えられているので、この世の中で決して孤独ではないのです。

「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。」掟という言葉につまずく人がいるかもしれません。これを守っていれば何も心配することはないとか、あるいはこれを守っていればほかは何をやってもいいということではないのです。ほかの個所では「新しい掟」とか「わたしの掟」とも言われています。イエスが言う「愛」ということと、この「掟」というのは相いれないもののようにも感じるかもしれません。

イエスが言う掟は、イエスが言う愛と同じなのです。イエスが言う掟というのは「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛しなさい」ということだけです。愛の掟、これを守りなさいということです。他者を愛すること、大切にすることはわたしたちのうちにおられる聖霊の働きによります。イエスの愛がわたしたちの中にとどまり、聖霊がわたしたちのうちに働くとき、わたしたちの中に「互いに愛し合う」「互いに大切にしあう」という生き方が実現していくのです。

1 朗読でフィリポがサマリアという異教の神を信じる人々のところに行って宣教している様子が使徒言行録で描かれています。このフィリポは、殉教したステファノと同じように食事の世話をするために選ばれた7 人のうちの一人でした。ところがステファノと同じように神のことばを宣べ伝えるために活動しています。使徒言行録では6 章から7 章にかけてステファノの働きが描かれ、8 章ではこのフィリポの活動が伝えられています。使徒たち、つまりイエスの直接の弟子である12 人と同様に宣教活動に励んでいたのです。

ステファノのように唯一の神を信じる者にイエスを宣べ伝えて殉教したり、フィリポのように異教の神を信じる者のところに行ってイエスを信じるようにさせたりしていました。ペトロとヨハネはそれらのことを聞いて大きな刺激を受けていたのではないでしょうか。エルサレムにとどまっていた使徒たちは、これらの新たに選ばれた人々の活躍を聞いて、自分たちが受けた聖霊をもっと多くの人々に受けてもらうよう外に出なければならないと感じたのでしょう。

 

わたしたちも、このフィリポの働きを通して自分の狭い殻を打ち破り、新しく挑戦する勇気を持つことの大切さを学ぶことができると思います。使徒言行録はわたしたち信徒の働きがどのように世の中に及んでいくのかを知るための、第一の手本となるものだと思います。復活節の中で読まれる「使徒たちの宣教」を通してわたしたちの中で働かれる復活したイエスを感じていくことができますように。

 

 

 

 

 

2026年3月15日

 

四旬節第4 主日の典礼は洗礼志願者のための典礼となっています。同時にすでに洗礼を受けたわたしたちも、洗礼を受けたときのことを思い出すよい機会となります。テーマは光、あるいは心の目が開かれる、見えないものが見えるようになるということです。洗礼の力は、わたしたちが暗闇から解放されて、光の子として歩む力を与えます。

いつもわたしたちには神の問いかけがなされています。それに気づくためには神のことばを聞くことが必要です。神のことばとは言うまでもなく聖書に書かれている言葉です。今日読まれた神のことばは、神の力が信じる者に働いて、心の目が開かれたことを伝えています。ヨハネによる福音では生まれつきの盲人の目が開かれるところが読まれました。イエスの「神の業がこの人に現れるためである」と言っています。これは目が見えないのは罪のためではなく、「神の業」が現れるためなのだということです。神の業とは目が見えるようになることです。

しかし、現実に見えるようになっただけではなく、イエスの行ったことが自分の身に起こったということが重要なのです。「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」と言っています。「イエスを知る」とは、イエスについての知識の問題ではなく、自分が変えられた体験をとおして知ることなのです。この盲人が地面の土を目に塗られたというのも意味があります。「あなたはちりであり、ちりに帰って行くのです」という灰の水曜日に言われた言葉が思い起こされます。そのちりによってこの盲人は目が見えるようになりました。そのちりを洗い流すためにシロアムの池に行きました。シロアムというのは『遣わされた者』という意味ですが、父である神から遣わされた者の第一の者、初めの者としてイエスが遣わされました。そこで目が見えるようになったというのは、イエスを通してわたしたちが心の目が開かれて見えるようになるということを意味しています。

この盲人はイエスをどう思うかと問われて、「あの方は預言者です」と答えます。「生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」わたしたちにもキリストとの出会いの体験があるはずです。自分の目が開かれた体験があるはずです。いやされた人にとって、自分の身に起こった出来事だけは決して否定できないことです。イエスに癒されたけれど、イエスを見たことがないこの人は「人の子を信じるか」と言われて、「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが」と言います。その人をいやした人が目の前にいることを知って「主よ、信じます」と言ってひざまずきました。イエスに出会って自分が変えられたのならば、わたしたちも同じようにそのことを証言せずにはいられないでしょう。

 

パウロの手紙でも暗闇から光へとわたしたちが変えられたことを語っています。それは洗礼によって目が見えるようにさせられたことです。サムエルも主によって目が開かれて、ダビデを選ぶ力を得ることができました。洗礼によって与えられたこの恵みに感謝してわたしたちも歩んでいきましょう。

 

 

2026年3月1日

 

四旬節第二主日は毎年それぞれ異なる福音書の「イエスの変容」が読まれます。このイエスの光輝く姿は偶然そうなったのではなく、イエスが受ける受難と十字架と死を通して受ける栄光の姿を前もって示されたものです。3 人の弟子たちはイエスに招かれて、一緒に高いところに上っていきました。イエスの変容を目の当たりにした弟子たちはその素晴らしい姿に励まされたことでしょう。

次にモーセとエリヤが現れイエスと語り合っていました。モーセは律法を、エリヤは預言者を表しています。この二人は旧約聖書で約束されているメシア救い主がイエスであることを証明するために現れたのです。その時の姿はパウロがテモテへあてた手紙の中で「キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました」と言っているとおり、死の後の永遠のいのちを生きるときの姿なのです。主の受難の前に示されたこの主の変容がわたしたちの信仰の支えとなります。つまり、永遠のいのちへの復活があるということを示しているからです。

主の変容は、イエスが宣教した神の国には栄光という特徴があることを示しています。それと同時に、弟子たちに十字架の試練に備えて、彼らを励まし力づけるために示したものです。主の変容と十字架というのは切り離すことができない出来事だと言えます。なぜなら神の栄光というものは、単に神には力があり光り輝くというだけでなく、自分をささげる愛、それも死さえをも受け入れる愛を通して神の栄光は来るからです。この栄光の二つの側面を学ぶようキリストは求めておられます。

光り輝く雲がイエスとモーセとエリヤを覆い、神の声が響き渡りました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」イエスの洗礼のときの神の声が聞こえたときと同じことばです。それに加えて「これに聞け」と弟子たちに呼びかけています。受難の道を行くイエスに聞き従えということです。残念ながら弟子たちはイエスの受難、十字架を見て離れ去っていきました。人間の努力ではどうしようもないという無力感を味わったのでしょう。しかし復活したイエスが弟子たちの間に現れると神の力に感激してイエスを信じるものとなりました。特に3 人の弟子ペトロとヤコブとヨハネは、あの光り輝く栄光の姿はこのことだったのだと理解したことでしょう。

 

主の変容による栄光と十字架による栄光をわたしたちも一つのものとして受け止めましょう。イエスの栄光の姿はわたしたちが担う十字架を通して永遠のいのちに至る姿でもあるのです。ミサや祈りの中でわたしたちがイエスのことばを聞くときイエスご自身が栄光を受け、わたしたちが自ら踏み出して自分を犠牲にして誰かを助けるたびにまたイエスが栄光を受けるのです。祈りの中でイエスは栄光を受け、ゆるしの中でまたイエスは栄光を受けるのです。主が示された栄光の姿をわたしたちも受けることができるよう祈り求めてまいりましょう__

 

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今日の福音は山上の垂訓と呼ばれる個所で、真福八端と呼ばれる8 つの幸いを弟子たちに述べられた後のイエスのお話しです。「あなたがたは地の塩である。」「あなたがたは世の光である。」弟子たちにイエスが言われた言葉です。そうなりなさいと言っているのではなく、あなたたちは地の塩であり、世の光なのだと事実をそのまま述べています。つまり、天の父である神の目には無条件にすべての人が役に立つ「塩」であり、みんなを照らす「光」となっているのです。今日の福音からわたしたちはすでにそうされているものだということをあらためて認識し、歩んでいくように求められているのではないかと思います。

塩はすべてのものに味をつけるものです。適度な量であれば体にとって良いものとなります。塩が食べ物に味をつけるように、すべての人に神から与えられた塩味を付け、どんな人間にも価値があることを示しなさいと言われているのです。イエスの弟子として、隣人の価値を見出しなさいということです。つまりわたしたち自身がイエスの教えを実践し伝える者とならなければならないということです。そしてわたしたち自身がイエスの教えを生きていないなら何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけなのです。

イエスの教えを実践する生き方とは何でしょうか。働けない人や体の不自由な人が世の中にはいるでしょう。他人と比べて頭の回転が遅い人や手のさばきが遅い人もいるでしょう。世の中ではできる人のほうが重宝されたり、尊敬されたりします。社会の中であまり必要とされず、良い扱いをされない人々に価値があることをわたしたちが見出すことが大切なことです。いくつかの例を出しましょう。病気の人の世話をする。貧しい人のために行動する。苦しんでいる人に寄り添う。困っている人の話を聞く。外国から来て困っている人がいたら、話を聞いて手を差し伸べる。これらはわたしたちが地の塩となっているあかしです。

世の光も同じです。イエスご自身が世の光であり、その光を受けてわたしたちも光り輝くのです。福音を生きることによって光り輝くのです。福音を生きること、イエスが教えられたことを生きること、これは人々には立派な行いと映るでしょう。そしてそれはとりもなおさず、天の父の素晴らしさを示すことになります。わたしたちが善い行いを人々に示すことによって、イエスの光を指し示すことになり、天の父をあがめるようになってくれるのです。

パウロが第二朗読で言っている言葉は、わたしたちがキリストをあかしするときどう考えればいいのかが語られています。「わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。」わたしたちが信じるのは人の知恵によるのではないということです。わたしたちはすべて神の力によって信じるようにされているのです。

 

わたしたちも、地の塩として、また世の光として人々にキリストをあかししていくことができるように祈り求めてまいりましょう。

 

 

2026年1月25日

 

マタイ福音書のきょうの個所はイエスが宣教を始められた場面です。ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受け、荒れ野で悪魔の誘惑を退けたイエスが、いよいよご自分の活動を始めていくところです。マタイが福音の中で引用しているイザヤ823 節と91 節は、今日第一朗読で読まれた個所であり、特に91 節は「主の降誕・夜半のミサ」で読まれた個所でもあります。

「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」

降誕節のテーマであった「闇に輝く光、神の栄光の現れ」というテーマは、イエスの活動全体を貫くテーマであり、今日あらためて確認されたのです。ヨハネの洗礼を受けたイエスはこれに従って宣教活動を始めます。

それは洗礼者ヨハネが言った同じ言葉で始められています。

「悔い改めよ。天の国は近づいた。」

天の国はすでに始まっています。しかし、まだ完全にはやってきてはいません。待降節から降誕節へとわたしたちは典礼の季節を過ごしてきましたが、そのときすでに来られたイエスを待ち望みながらいまだ来られない復活のイエスを待ち望んでいました。人となられたイエスはすでにこの世に来られたけれども、いまだ再臨のイエスは来ていないという時を過ごしました。最後の審判のときはまだ来ていないということになります。わたしたちはいつでも神の前に自分は正しかったと言えるように準備していなければなりません。わたしたちはいつ死ぬかわからないし、いつ神の前に立つかわからないので、いつでもその準備ができるようにしておかなければなりません。

今日の福音では、洗礼者ヨハネが捕らえられ、イエスはまず自分の弟子を選びます。そして、イエスの呼びかけにすぐに従う弟子たちが描かれます。しかし現実的に考えるとすぐに従うということは少し不自然に感じます。世の中で、師匠と弟子という関係になる前に、弟子になる人がこの師匠について行くことができるかを検討するはずです。ところがここではイエスの呼びかけにすぐに応えて弟子としてついて行くのです。「イエスが弟子を選ぶ」ということは、「神の選びの根拠が人間の側にない」という聖書特有の考え方に基づいています。人間が神を選ぶのなら、人間の側の選択能力が優れているということにもなります。

しかし、神が人間を選ぶということであれば、選ばれた人間が必ずしも優れていなくてもいいのです。神の選びとは、もっとも弱く、貧しい人を選ぶことによって、すべての人を救おうとするものです。パウロも「選ばれた側は何も誇ることができないのです(Ⅰコリント12631 節参照)」とも言っていますし、弟子であるペトロやヨハネも後々まで「無学な普通の人」(使徒言行録413)と言われていました。つまり、神の呼びかけに応えるということは、神が選ぶことなのです。極端に言えば、わたしたちが神を選んでいるように見えることが、実は神によって召されて選ばざるを得ないようになっているのです。

 

そのようなわたしたちですが、今日読まれたパウロの手紙は辛らつに分裂の愚かさを語っています。キリスト教一致祈祷週間の終わりにあたり、わたしたちキリストを信じる者もパウロの言うことに陥っていないかどうかを振り返りましょう。

 

 

2026111

 

今日は降誕節を締めくくる主の洗礼の祝日です。イエスが公に活動する出発点でありますので、降誕節のテーマである「イエスの神の子としての現れ」にふさわしいものです。また、逆に洗礼者ヨハネにとっては、この世の働きの終わりと言えます。ヨハネの活動からイエスの活動へ移っていくのです。マタイ32 節でヨハネが「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って人々に洗礼を授けていましたが、417 節では同じ言葉をイエスが「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って福音を宣べ伝え始めましたからです。

今日の福音はその間にある場面です。イエスがヨハネのもとにやってきて洗礼を受けようとしました。しかし、ヨハネは思いとどまらせようとして次のように言いました。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、」と。今日の福音の直前でヨハネは「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と言っていました。その方がイエスだと分かっていたのです。しかし、イエスは「今は、止めないでほしい」と言います。この水による洗礼も神の救いの計画の一つなのだということです。「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」のちに、ヨハネは牢で首をはねられ、イエスは十字架につけられ殺されてしまいます。しかし、それらすべてがわたしたちのための神の救いの計画なのです。

イエスが洗礼を受けると、天が開き、神の霊がイエスの上に降り、天から声が聞こえました。天が開け、神の霊が降るという視覚的な面と、天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という聴覚的な面が示されています。神がこの世に介入してくることを表現しています。この場面はイザヤの預言で見ることができます。「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。」イエスが神の子として現され、イエスが神の子としての使命を自覚することになったということです。

また、この洗礼の場面を見ると「洗礼」だけではなく「堅信」の秘跡についても示されていると思います。「イエスは、神の霊が鳩のようにご自分の上に降って来るのを御覧になった」とあります。イエスの復活後50 日目に、使徒たちの上に聖霊が降り、使徒たちは外に出て行って福音を告げ知らせ始めました。弱い人間が聖霊に強められて神から与えられた使命を果たしていくようになったのです。第二朗読の使徒たちに宣教では、ペトロの説教と呼ばれるところが読まれました。

「神は、聖霊と力によってこの方を油注がれたものとなさいました。」わたしたちも洗礼を受け、堅信を受けて、自分が神に愛された子であると深く受け取り、聖霊に支えられて神の子としての使命に生きることができるのです。

 

洗礼は今の典礼では、入信の秘跡と言って、洗礼・堅信・聖体の三つの一連の秘跡の中に組み込まれています。特に成人の入信の秘跡では、この三つは切り離せないものとなっています。洗礼をうけることによってわたしたちがこれまでに犯してきた罪が赦され、それまでの罪は神の前でといわれることがなくなります。しかし、そのあとに犯した罪に関しては、悔い改めたり、赦しを受けたりしなければなりません。だからこそ、堅信の秘跡によって信仰を強め、聖体の秘跡によってキリストとともに歩む力を受けて、わたしたちの罪への傾きを修正していくことが大切なのです。今日、主の洗礼を祝うわたしたちが、わたしたち自身がそれぞれに受けた洗礼によってキリストの教えに従い行動できるように祈ってまいりましょう。