主日のミサが、基本月2回となり、他の日曜日は集会祭儀となりました。集会祭儀には佐藤神父様の教話を集会祭儀の司会者が読み上げます。


2024.11.17

 

    カトリック学校では、他の公立学校あるいは私立学校と比べて違うところがあります。それは宗 教という科目があることです。宗教と関係ない一般の学校では通常、道徳や倫理と呼ばれる科目に 置き換わるものです。わたくし佐藤が神学生のとき、あるカトリック学校に行って宗教という科目 について聞く機会がありました。先生のお話によると、宗教の授業の内容は道徳の授業の内容とは 異なるとのことでした。道徳とは人間同士の関わりの中でどう人間らしく生きていくのかを教える ものですが、宗教では人間同士の関わりの上に神との関わりが加わり、その中でどう生きていくか を教えるものです。

 

 人間関係がうまく行かないとか、誰とも関わることができないとかで、引きこもってしまうとき に、道徳で教えていることだけでは行き詰まってしまうことがあります。それは人間同士の関わり の中で解決しようとするからです。人間関係で苦しむような状態になった人は、解決もできずに最 終的に自分がいなくなればいいと考えてしまうことがあります。自死という手段を取り、この世か らいなくなることで苦しみから逃れようとするのです。この世では自分を救ってくれる者、守って くれる者がいないことに絶望するからです。

 

 宗教の科目で教えていることは、人間同士だけでなく神との関係の中でもわたしたちは生きてい るのだということを教えています。人間同士の関係が難しい状態になっても、例えばクラスの中で いじめや無視があったとしても、神の愛は無くならないと知っていれば、あるいは神の恵みがつね に注がれているという感覚を持っていれば、そこに希望をもった上で現実を見つめ、一歩ずつ解決 に向けて歩んでいけるのではないかと思うのです。ですから、カトリック学校における宗教という 科目は、人を導くために欠かすことができない科目でもあるのです。

 

 今日の福音ではエルサレムの荘厳な神殿を見ながら終わりの日に何が起こるのかをイエスは弟子 たちに語ります。イエスが語るのは「苦難の後、人の子が大いなる力と栄光を帯びてやってきて、 天使たちを遣わし選ばれた人たちを呼び集める」ということです。つまり、救いの日は近づいてい るということを弟子たちに話します。人の子、イエス・キリストが再臨して人々を救うという希望 を示しています。ですから、ここは、この苦難の時代は過ぎ去り、最終的に神のみ心によって希望 が実現するというメッセージなのです。

 

 一方で、今日の福音の最後には「その日、その時は誰も知らない。父である神だけが知ってい る」という言葉があります。その時がいつ来るのかだれも知らないのだから、今必要なことは皆が 目覚めていなければならないということを言っています。これはいつも今の現実をよく見つめるよ うにという戒めのメッセージです。つまり将来のことばかり夢見てこうなればいいとかああなれば いいとか議論するのではなく、現実を常に見つめていなさいということを弟子たちに語っています。 これは現代の私たちにも当てはまることだと思います。

 

 わたしたちもややもすればこの弟子たち のように現実を見つめようとせず、将来の救いばかりを期待する傾向がないでしょうか。自分の努 力なしに神に何かをしてもらうことを期待することはないでしょうか。人々の目を現実からそらせ、 将来に期待させることはいつの時代も支配者が望んできたことです。例えば、今苦しんでいる人や 貧しい人、病気の人から目をそらし、将来の見えない危険に備えてお金を使ったりすることなどが 思い浮かびます。明るい将来を描き、理想を大きく掲げ、現実の問題を見せないようにしてさらに 多くを人々から搾取するということはいつの時代も行われてきました。苦しむのは支配される側の 人々です。

 

 これらのことからも分かるように、実は終末思想という「将来の危険を示して今備えなければな らないという脅し」が広がって喜ぶのは支配者なのです。したがってわたしたちはしっかりと現実 をよく見て、今何をなすべきかということにもっと関心を払った上で将来の希望を見据えていかな ければならないのです。終末の希望とは自分の死後のからだの復活によって神のもとでキリストと もに永遠の命にあずかることです。今月は死者の月ですが、いつか亡くなったすべての人とあいま みえることを期待しましょう。そのためにもこの世でのわたしたちの働きが神のみ旨にかなう、実 りのあるものとなるように祈りましょう。 

2024.11.3

 

    今日の福音は最も重要な掟がイエスから語られる場面です。これはマタイやルカの福音書でも、こ の掟を語る場面があります。マタイ福音書では「律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた」と あります。悪意のある問いかけだったことがうかがえます。ルカ福音書ではイエスの問いかけに律法 学者が答えています。そして「わたしの隣人とはだれですか」と問われてよいサマリア人のたとえ話 に入るわけです。最後に「行ってあなたも同じようにしなさい」とイエスは言われます。

 

    今日読まれたマルコでは律法学者が適切な答えをしてイエスに同意しています。「先生、おっしゃ るとおりです」。そこで「あなたは、神の国から遠くない」とイエスは言われます。マタイとルカで はマルコのこの32節から34節の律法学者とのやり取りがありません。マルコだけにあるものです。 この律法学者とのやり取りでは、いろいろな掟がある中で何が一番のおきてなのかが示されます。

 

 根 本にある守るべき掟は何なのかということが示されているのです。 「神である主を愛せよ。隣人を愛しなさい。」律法学者はイエスと同じ考えであることがわかりま す。最も大切なことを知っているわけです。イエスは「あなたは、神の国から遠くない」と言われま す。遠くない、しかし、まだ入っていないということです。神の国に入るにはどうすればいいかとい うと、その掟を実行することです。ただ頭でわかっているだけではいけないのです。行うことによっ て初めて掟を守っていると言えるのです。ですから「あなたは、神の国から遠くない、すぐ実行しな さい」ということばが続くのです。ところがこの掟は実際には行おうとするととても難しいものなの です。

 

 「隣人を自分のように愛しなさい。」ルカ福音書の良いサマリア人のたとえを思い起こしましょう。 そこでは、祭司やレビ人は倒れている人を見ると道の向こうを通って行きました。どのような事情が あったのかわかりませんが、かかわりたくないと考えたのでしょう。ところが、あるサマリア人はそ の人を見て憐れに思い、介抱したのです。行動に移したのです。道の向こうを通って行った祭司やレ ビ人と、介抱したサマリア人との差は何なのかをよく考えるといいと思います。見ていながら関わり たくないと思い離れて行くのと、見て憐れに思いすぐに近づいていくのと、どちらがわたしたちの行 動になるのかを考えてみましょう。「自分のように」というのは、憐れに思う心の表れです。憐れに 思うことで突き動かされて、わたしたちは実行していくことができるのです。「心を尽くし、知恵を 尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する。」神に仕え、人に奉仕することが できるかがわたしたちにも問われているのです。 

2024.10.20

    今日の福音はイエスはわたしたちキリスト者がどうあるべきかを示してるものです。国の指導者あ るいは権力者や有力者が支配したがることをイエスは指摘し、わたしたちはそうであってはならない ということを教えています。わたしたちは皆に仕える者であるということを求めておられるのです。 すべての人の僕になりなさいとも言われます。今の世の中であって、それは難しいことかもしれませ ん。現代は平等という名のもとに上昇志向をあおり、競争に勝った者が得をし、負けた者を支配する 社会だからです。しかし教会は今まであったどのような政治形態をも取り入れることのないように注 意しなければなりません。教会は封建制的なものでもなければ君主制的なものでもなく、かといって 民主制的なものでもないのです。現代の民主主義も、結局は権力欲を消滅させるものではないのです。 信徒が積極的に働くための民主化は必要ですが、それが誰かを支配するための権力となってはなりま せん。いつも「皆に仕える者」「すべての人の僕」となるということを常に考えて行動することがキ リスト信者には求められているのです。

 

    仕えるということは自分を消してしまうことでもなく、また何もしないことでもなく、あるいは責 任を回避することでもありません。仕える者は活動する者となるのです。イエスご自身が仕える者と なられました。その頂点が十字架の死です。ヤコブとヨハネが権力を得たいと思ったり、他の十人が そのことで腹を立てたりといった弟子たちの誤った考えや生き方から、イエスは自らの死によって彼 らを解放しました。わたしたちが歩む十字架の道とは苦しみを意味するのではなく、すべての人に仕 えることなのです。自分が仕える相手をえり好みしてはならないし、仕えることを実現するために新 しい階級制度を作ってはならない。たとえば、人より抜きんでるための手法として他人に仕えるのに あまりにも積極的であったり、最もよく仕えている人をほめたたえるようなことになってはならない のです。ただすべての人に仕えること、これがイエスが教えてくださったことなのです。それこそが イエスと交わり、イエスに従う道であるのです。

 

     12 人をイエスは呼び寄せて言います。世の権力者の生き方とイエスが示す生き方の違いを伝えま す。前者は権力をふるい人々を支配する生き方が偉大さの基準とみなされています。しかし、イエス は「あなたがたの間では、そうではない」ということばを挟んで後者のイエスに従う道を示します。 「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての しもべになりなさい。」本来なら避けて通りたい生き方と感じるかもしれません。上昇志向で生きて いく生き方の方がいいと感じるかもしれません。しかし、イエスが示されたのは真の弟子になるため の道です。細く狭い道かもしれませんが、皆に仕えること、すべてのしもべになることを求めていま す。福音書に描かれている弟子たちというのは、まだ心もとない弱い姿で描かれています。それはわ たしたちの姿でもあります。弟子たちはつまずきながらもイエスに従うことをやめようとはしません。 イエスの死後、復活のイエスと出会うことで弟子たちは大きく変わり、大胆にイエスを宣教し始めま す。わたしたちがイエスに従う歩みの中で、そこに示された弟子たちの姿もわたしたち自身の姿なの だということです。仕えられるためではなく仕えるために来られたキリストに従って歩んでいくこと ができるよう祈りをささげましょう。  

    また、今日は世界宣教の日の祈りと献金にあたっています。日本だけではなく全世界のカトリック 教会で記念される日です。イエスが弟子たちに伝えたのは「全世界に行ってすべての人に福音をのべ 伝えなさい」ということです。この命令によってまず弟子たちは当時行くことのできる限りの全世界 に行きキリストをのべ伝えました。現在わたしたちがキリスト信者であるのは弟子たちに続く宣教師 たちが苦難を乗り越えてどうしても多くの人に福音を伝えたいと思って行動した結果であるのです。 『聖書と典礼』7 ページにコラムを寄稿している東京教区のアンドレア司教もミラノ会の宣教師とし て日本に派遣された方です。日本は布教が進まず、いまだに宣教国で多くの援助をいただいています。 世界を見ると、カトリックの信者はおよそ 13 億 7500 万人(2021 年)いますが、全世界の人口の 17% 程度ですから、まだまだキリストの福音を告げ知らせる必要があるのです。わたしたちも少しでも周 りの人にキリストをのべ伝えることができるよう神の恵みを願いましょう。

2024.9.29 

 弟子たちが言う「お名前」というのは、イエスの名前ということです。イエスの名を使って祈る ということは、そこにイエスの力が働いているのです。もしイエスに反対する者がいたとしても、 イエスの名を使って人を祝福したりするでしょうか。「イエスは素晴らしいお方であるから、その 名を使ってあなたにとりついている悪霊を追い出す」という人がイエスを嫌悪していることがある でしょうか。少なくともイエスの力を信じているからこそ、その名を発することができるのです。 弟子たちに従わないからと言ってイエスに従っていないとは言えません。弟子たちに従わないので あり、イエスの名を使って行動しているということは、イエスに従っていることなのです。

 

 わたしたちの中でもそういうことはよくあるかもしれません。教会の中でもあの人には従わない とか、あの人とは合わないということがあるかもしれません。しかし、それぞれがイエスの名を信 じて歩んでいるなら、お互いに敵対していたとしてもイエスの弟子なのです。イエスは「キリスト の弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」と 言っています。その報いはわたしたちが生きているときにもあるかもしれませんし、わたしたちの 生涯が終わったのちに受けるかもしれません。

 

 今日の福音の後半は「地獄」という言葉が出て来ます。とても恐ろしい言葉ですが、わたしたち 一人ひとりが地獄に陥る可能性があるというのが聖書の教えです。わたしたちを内側から破壊し、 永遠の死を自ら選んでしまうような意思がわたしたちにはあります。そこに陥ることを「地獄」と 言っているです。使徒ヤコブの手紙を見ると、物質的な富を切望する人々に対して、「あなたがた の富は朽ち果て・・・金銀もさびてしまいます」と言っています。これが地獄へ向かうわたしたち の意思の結果なのです。

 

 地獄を選ぶことを人間は普通はしないと思いがちですがそうではないのです。世界がこれまで経 験してきた地獄のような心と魂と肉体の恐ろしい苦しみを思い浮かべてみましょう。現在に至る歴 史の中で、あらゆる地域で行われた戦争における引き裂かれた肉と骨、破壊、憎しみを思い浮かべ てみましょう。皆それぞれ人格があり、家族があり、隣人があり、戦争などなければ生涯を全うし たことでしょう。国民を動物の状態にまでおとしめるほどの国家全体の抑圧があったことを思い浮 かべてみましょう。いまだにそのような国があることをわたしたちはいつも憂いています。強制収 容所に死体を積み上げるブルドーザーの映像を思い浮かべてみましょう。あるいは結婚が破綻した ときの焼けつくような傷、拒絶されたときの孤独を思い浮かべてみましょう。

 

 これらはすべて恐ろしいことですが、実は地獄の苦しみとは似ても似つかないものです。違いが ひとつあります。それらの苦しみはわたしたちが自由に選んだものではないのです。地獄はわたし たちが自ら選ぶものなのです。不思議に感じるかもしれないが、地獄はわたしたちの自由な意思に よるものです。地獄で罰を与えるのは神ではありません。地獄はわたしたちの自らの意思によって 神を拒絶することであって、神が下す最終的な答えではないのです。神の愛を拒絶することは、実 は神に対するわたしたちの最終的な答えなのです。

 

 地獄があるのはわたしたちのせいであって、神の厳しさではありません。地獄の炎はわたしたち を焼き尽くし、わたしたちを破壊するわたしたち自身の憎しみの炎にほかなりません。取るに足ら ないこととわたしたちが感じていたとしても、わたしたちは皆、最後には失われ永遠に神から引き 離されるという恐ろしい可能性を、自分の中に持っているのです。わたしたちが今ここで善と悪の 間にどう対処するかによって、神を永遠に愛するか拒絶するかを選ぶことになるのです。その意味 でわたしたちは今、天国か地獄かを生き始めているのです。

 

 もしわたしたちが神の愛を拒むと決断するのか、それとも手足を切り捨てたり目をえぐり出して も天国に入りたいと決断するのか、わたしたちはどちらを選ぶでしょうか。わたしたちの決断の間 には、地獄という選択もあれば、救いという希望もあるのです。キリスト者としてのわたしたちの 生活は、地獄の恐怖にさいなまれるのではなく、わたしたちの幸せだけを望んでおられる神の愛に いつも励まされているのです。確実に神の愛は悪の力に勝利しているのです。わたしたちがやるべ きことは、日々の生活の中でイエス・キリストの勝利を祝うことだけなのです。そして、キリスト のためになされた最も小さな行為、たとえ一杯の水を飲ませることであっても、その報いをわたし たちは失うことはないのです。わたしたちの最終目的地は言い尽くしがたい幸せなのであって、地 獄の炎ではないのです。

2024.9.15

    今日の福音は最初の受難告知です。マルコ福音書によれば 3 回、この受難告知が行われます。人 の子は必ず多くの苦しみを受け、・・・殺され、三日の後に復活することになっている。これが 8 章、9 章、10 章と 3 回繰り返されます。それぞれ場面は違いますが、今日の福音ではペトロの信仰 が宣言されます。それは「あなたは、メシアです」という信仰告白です。ペトロの口から発せられ ていますが、マルコ共同体の教会の信仰宣言であると考えてよいと思います。この信仰宣言はわた したち自身もミサのたびごとに唱えています。イエスがわたしたちの救い主であるという宣言にな ります。

 今日の聖書の個所の位置づけを見て見ましょう。フランシスコ会の分冊のマルコによる福音を見 ると本文にタイトルがつけられています。第 1 章 1 節から 13 節までは「序説キリストの来臨」とあ ります。第 1 章 14 節から第 8 章 26 節までは「第一部『イエズスはどういうかたか』-イエズスの 神秘」とあります。今日の個所である第 8 章 27 節から第 15 章 47 節までは「第二部イエズスの神秘 の啓示」とあります。

 第 16 章 1 節から 8 節までは「結びイエズスの復活」とあります。最後に第 16 章 9 節から 20 節までは「補遺イエズスの出現と昇天」で締めくくられています。序説、第一部、 第二部、結び、補遺とフランシスコ会訳の聖書ではタイトルがつけられていますが、これはとても 分かりやすいものです。今日の個所は第一部が終わって第二部に入るところです。イエスがどうい うかたかを示した後に、イエスが示されたことの意味を示していくところに入っていく最初の場面 であるということです。

 

 その最初の場面で、イエスは弟子たちに「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と問 われます。今までいろいろなことを示してきたイエスを、人々は何者だと思っているのかを弟子た ちに聞いたのです。病人をいやしたり、多くの人にパンを増やして与えたりしていましたから、評 判はよかったのだと思います。人々の評価を聞いた後にイエスは弟子たちに「それでは、あなたが たはわたしを何者だと思うのか」と問います。イエスとともに歩み、イエスの行ってきたことをい つも見てきた弟子たちに問いかけるわけです。弟子たち自身の判断を迫るわけです。

 

 真っ先にペトロは答えます。気の短いせっかちなペトロですから、どの弟子たちよりも真っ先に 答えます。「あなたは、メシアです。」ペトロの答えはもちろん正しいと思いますが、わたしたち 自身はどう答えるのかということが今日の福音では問われていると思います。「それでは、あなた はわたしを何者だと思うのか。」みなさんも「あなたは救い主です」と答えると思います。

 

 今日の福音はそれでは終わりません。人の子は必ず多くの苦しみを受け、…殺され、三日の後に 復活することになっている。最初に述べた受難の告知がイエスの口から発せられます。救い主では あるけれども、この世の中で王となって救いを実現するという救い主ではないということを示しま す。苦しい時の神頼みで自分を救ってほしいというそういう救いではないのです。苦しいときに優 しい言葉で救いの言葉が語られて安心するという救いをイエスはもたらすわけではない。あるいは、 今の苦しい状況を解消してくれるわけでもない。

 

 イエスがもたらすのは、それぞれの十字架を背負ってイエスとともに歩むことです。それがこの 受難告知に示されています。イエスはすべての人の罪のあがないのために十字架につけられます。 それを弟子であるわたしたちも自分自身の十字架を背負って歩むよう求められているのです。単に イエスの救いの言葉や行いを自分の都合のいいように解釈して安心するのではなく、それぞれに与 えられた十字架を生きていくことが求められているのです。その歩みの中でイエスの救いが実現し ていくわけです。

 

 それを勘違いしたペトロはイエスにいさめられることになります。「サタン、引 き下がれ。」これはとても厳しい言葉です。「あなたは神のことを思わず、人間のことを思ってい る。」

 第二朗読でヤコブが言っています。「自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わな ければ、何の役に立つでしょう。」この行いこそ自分の十字架を背負って歩むことです。決して自 己満足のために行うことではなく、それぞれが置かれた場でイエスの行いを実践していくことなの です。

 今日の福音の最後のことばはそのまま受けとめていいと思います。イエスを信じる者すべて が心に留めておくべきことばです。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背 負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、ま た福音のために命を失う者は、それを救うのである。」このイエスのことばを心に留めて歩んで行きましょう。

2024.9.1

    わたしたちを神に近づけるものとして数々の信仰箇条があります。信仰宣言の中で二ケア・コンスタン チノープル信条が最も大きなものです。それ以外にも、まず第一に父と子と聖霊を信じることがその最初 にあります。さらにこの世で生きて行くために必要なものとして人と人との間の決まりがあります。これ は道徳的なものを含んでいます。それらの一番古いものとしては神の十戒があります。モーセが神から与 えられたものです。第一から第三までは人と神との間の掟ですが、第四戒から第十戒までが人と人との間 の掟になります。 今一度、神の十戒を確認してみましょう。

 

第一、わたしの他に神があってはならない。

第二、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。

第三、主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。

第四、あなたの父母を敬え。

第五、殺してはならない。

第六、姦淫してはならない。

第七、盗んではならない。

第八、隣人に対して偽証してはならない。

第九、隣人の妻を欲してはならない。

第十、隣人の財産を欲してはならない。

 

    もちろんこれ以外にモーセの律法と呼ばれるモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申 命記)にもさまざまな規定が詳しく書かれています。

    ところが今日の福音で出てきた「食事の前に手を洗え」という律法は、実はモーセ五書にはないのです。ところがここに出てくるファリサイ派の人々と律法学者たちは手を洗わないことで人々を戒めていたので す。これは律法ではなく昔の人の言い伝えだったとあります。それを彼らは固く守っていたのです。しか しこの言い伝えには自分たちを「清める」ことで異邦人たちの「汚れ」から逃れるという宗教的な意味が あるものでした。衛生的に清めるという意味ではなく、自分たちと異邦人とを分けるために清めるのです。 多くのユダヤの人々はそんなことは知りませんでしたから「手を洗いなさい」と言われて、それに従うし かなかったのです。

    「清め」は汚れた人々からの分離という意味の言葉で、人と人とを区別することを意味します。「汚 れ」という言葉は本来は「共通の」という意味を持っている言葉です。そこから人々の交わりとか一致を 意味している言葉が派生して出てきているのです。ミサの中で主の祈りから聖体拝領までを「交わりの 儀」と言っています。

    本来、交わりは多様な人々が一致して歩むことであって、人々を分断することで あってはなりません。イエスは分離ではなく交わりを重んじていましたので、無学な人々や異邦人が昔の 人の言い伝えで分断されてしまうことをイエスは望みませんでした。逆にファリサイ派の人々や律法学者 たちに対して、多様な人々を分断する者として糾弾していたのです。

 

    彼らに対してイエスは人の中から出てくるものこそが人を汚すのだと言います。出てくるものが 12 個 並べられています。初めの 6 つは人から出てくる行いであり、あとの 6 つが人の心の中の思いを表します。

みだらな行い、盗み、殺意(殺人のこと)、姦淫(姦通)、貪欲(むさぼること)、悪意(悪意のある行 為)が人から出る汚れた行いです。詐欺(欺瞞、狡猾、裏切りなど)、好色(みだらさ、堕落)、ねたみ (悪意に満ちた心)、悪口(誹謗中傷、虐待的な言論、冒涜)、傲慢(人より自分を誇る思い)、無分別 (愚かさ、感覚の欠如)が人から出る汚れた思いです。

 

    この行いと思いが問題なのです。わたしたちの中 にも無いとは言えないものです。自分自身の良心を糾明するときにこれらの 12 の汚すものがあるのかな いのかを振り返りましょう。そしてあらためて行きましょう。

    使徒ヤコブは言います。「心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの 魂を救うことができます。御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になっては いけません。みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守る こと、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。」御言葉とはイエスが教えてくださった福 音です。わたしたちがイエスの望んでおられることを清く汚れのない信仰をもって行うことによって、 ファリサイ派の人々とは逆の形で、まさに人々と分断することなく、人々との交わりが実現できるようになるのです。

2024.7.21

    「使徒たち」ということばから今日の福音は始まっています。「使徒」ということばはマ ルコによる福音では 2 回だけ使われています。3 章の「十二人を選ぶ」というところと今日 の個所です。3 章では「そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそば に置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった」と述 べられています。イエスによって「遣わされた者」となった者の使命は、神の国を宣べ伝え、 悪霊を追い出すことです。イエスが行ってきたことを同じように行っていく者だということ です。この「遣わされた者」という意味の「使徒」というのはわたしたち自身の姿であると もいえます。先週、使徒たちは二人ずつ組みにして遣わされました。つえ一本だけもって宣 教し、悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやしました。

 

    わたしたちもイエスから派遣されて社会の中で歩んでいます。そして様々な社会の場から イエスのもとに帰ってきて集うのがこの「主日のミサ」と言えると思います。ここでわたし たちが派遣されたところで自らが行ったことや実際に起こったこと、その場で感じたことを イエスに伝えるのです。「使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったこ とや教えたことを残らず報告した」のです。イエスはわたしたちの話したこと、行ってきた ことをまず聞いてくださいます。わたしたちもイエスに残らず分かち合うことがミサで集う 目的であると言えます。この社会の中で喜んだり、悲しんだり、傷ついたり、泣いたりした ことがあると思います。それを使徒たちがしたようにわたしたちも分かち合うのです。ミサ にあずかるというのは、ともすれば教会に集って神の教えを聞くだけに終わってしまいがち です。それだけではなく、二人三人が集まるところにイエスはそこにおられるのですから、 お互いに 1 週間の間に自分が行ってきたことやどのような出会いがあったかなどを分かち合 うことが大切なことではないでしょうか。

 

 ところで、この場面では、使徒たちがどのような成果を上げたのかについては述べられて いません。しかし、イエスが「しばらく休むがよい」と言っておられることから大変な成果 を上げたと考えられます。その成果によって、「出入りする人が多くて、食事をする暇もな かったから」です。イエスが「しばらく休むがよい」ということばを述べられているのは重 要です。マタイ福音書でも「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。 休ませてあげよう」と言われています。イエスのもとで休むということは、宣教によって疲 れた者がミサに集い、こんなことがあったあんなことがあったとイエスに報告することでも あるとも言えるでしょう。

 

 さて、使徒たちは休むために「自分たちだけで人里離れたところへ」行くのですが、そこ にも群衆が押し寄せてきました。イエスは大勢の群衆を見て、「飼い主のいない羊のような 有様」と感じます。羊は弱い動物で、群れから離れると死んでしまいます。飼う者がいない 羊の群れは散り散りになり、野のけものの餌食となります。そのような人々に対してイエス は深くあわれまれたのです。「迷い出た羊のたとえ」で、百匹の羊のうち一匹が迷い出たと すれば九十九匹を残して一匹を探しに行くという話があります。どんなに小さな一人でも軽 んじないようにとイエスは教えられます。イエスのあわれみは人びとの姿を見て、心の底か ら揺さぶられて、その人のことを自分のことのように感じるものです。目の前の人の苦しみ を見たときに自分のはらわたが揺さぶられるような、そんな感覚です。イエスの行いの原点 にはそのような感覚があるのです。わたしたちもイエスのような共感する感覚を大切にして イエスの歩まれた道をともに歩んで行きましょう。

2024.7.7

    聖書には物語のまとまりごとにタイトルがつけられていて、その内容を要約したものと なっています。今日の福音のタイトルは「ナザレで受け入れられない」と記されています。 ナザレはイエスのふるさとであり、ガリラヤ地方の一つの町です。イエスがヨハネから洗 礼を受け、荒れ野で 40 日間試練を受け、ガリラヤで福音を宣べ伝えられました。その後、 多くの人たちを弟子とし、多くの病人をいやしていきました。そして弟子たちの中から 12 人を選び使徒と名付けられました。イエスは神の国をたとえをもって話され、ガリラヤ中 をめぐってイエスを信じる多くの人々をいやされました。

 

    マルコによる福音では、イエスの一行がエルサレムに行くまでのちょうど中間にあたる この第 6 章に「ナザレで受け入れられない」というエピソードを入れています。イエスを 信じていやされてきた人々の話しの間に今日の福音が入れられています。「人々はイエス につまずいた」、また「人々の不信仰に驚かれた」とあります。なぜつまずいたのか、な ぜ信じなかったのでしょうか。

 

 先週の福音ではヤイロの娘と出血に悩みイエスの服に触れる女性のお話でした。イエス は「あなたの信仰があなたを救った」と言い、「ただ信じなさい」と言われました。この 二人は、どちらもイエスが来たことを知り、イエスの力を信じて行動に移します。イエス なら自分の幼い娘をいやしてくださると信じ、イエスなら長い間病気を患っている自分を いやしてくださると信じているのです。

 

 今日の福音の中では故郷の人々の言葉があります。まず、彼らは自問しています。2 節の 後半です。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。」その後続けて 3 節で 自答しています。「この人は、大工ではないか。」どちらも「この人は」で始まっていま すが、自分たちで問いを出し、自分たちで答えを出しているのです。この事実にイエスの 故郷の人々はとらわれてしまっているのです。イエスの生い立ちや人間的なつながりに目 が奪われているのです。

 

 2 節の問いかけに対して、それが神から来たものであると信じることができなかったので す。イエスの行っている数々の奇跡が、背後で働かれている神からのものであると信じる ことができればつまずくことはなかったのです。ここに集うわたしたちはイエス・キリス トを信じて祈っています。しかし、人と人との間では、ナザレの人々のようにつまずきが あるかもしれません。人を先入観で決めつけてしまうと、その人をありのままで受け入れ ることができなくなります。その人があるところでよい面を持っていたとしても、受け入 れようとしない気持ちが勝ってしまうことがあります。今日の福音の問いかけはわたした ちの問題でもあるのです。

 

 1 節に「イエスは故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った」とあります。人々がイエ スにつまずき、信じることができない場面に、弟子たちも立ち会うことになります。イエ スは弟子たちに、そのような人の子の不名誉な場面を見せるのです。後に宣教する弟子た ちに低くされたキリストを示すためだとも考えられます。パウロにイエスが言われたこと ばが第 2 朗読で示されています。「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」イエス は弟子たちにまさにこのことを示すために故郷ナザレに帰ったのではないでしょうか。

 

 これを機にイエスはガリラヤを去ることになり、異邦人の地を通り、エルサレムに向か います。弟子たちはこのイエスの姿を見て、後に大いに宣教するようになります。わたし たちもパウロの言葉に励まされ、力づけられて歩みましょう。「キリストの力がわたしの 内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」は、

 

2024.6.16

 今日の福音では、2 つのたとえの中にそれぞれ「神の国」という言葉が出て来ています。マルコ による福音の初めにイエスが 40 日間の荒れ野での試練の後、ガリラヤへ行って宣教を始めます。 その第一声は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という言葉でした。 イエスの宣教の中心は「神の国」を告げ知らせ、どのように実現していくかを示すことでした。  

 

 では、「神の国」とは何なのでしょうか。それをはっきり示してくれと人々はイエスに問いかけ ていたのでしょう。イエスはまず、汚れた霊にとりつかれた男をいやしたり、重い皮膚病を患って いる人をいやしたり、中風の人をいやしたりといった、いわゆる奇跡と呼ばれることを行っていま した。すでにそれらが神の国が近づいたしるしであるのに、それでもまだ神の国を示してくれとい う人たちが大勢いたのでしょう。身内の人たち、母や兄弟姉妹、親しい人たちもまだ分かっていな かったので、「神の国」とはどういうものかをイエスはたとえで示そうとしたのかもしれません。  

 

 「神の国」は、イエスによってこの歴史の中に入ってきました。イエスの教えと救いの業によっ て始まっているのです。人々が悔い改めてこの救いの業を受け入れ、自分のものとしていくことが 求められます。それはイエスに信頼して歩んでいくことによって始まります。しかし、まだ「神の 国」は完成していません。「神の国」の完成は、歴史の終末において人の力によってではなく、神 の力によって完成するものです。ミサの中や典礼の中で「神の国の完成を待ち望みながら・・・」 という言葉を使うことがよくあります。「神の国」はイエスの到来によってすでに来ましたが、い まはまだ完成はしていないということです。  

 

 ところで福音の最初の段落のたとえはほかの福音書にはない個所です。ありそうに思えますがマ ルコによる福音にしか書かれていません。ここを要約すると、「種を蒔いて世話をすると芽を出し て成長して実を結ぶ」ということになります。その中で大事なキーワードとしては「その人は知ら ない」「土はひとりでに実を結ばせる」でしょう。「どうしてそうなるのか、その人は知らな い。」どうして種を蒔いて時がたち芽を出して成長するのかを人は知らないのです。そういう現象 が起こることをわたしたちも見て知ってはいます。ですが、なぜそうなるかはわたしたちも知りま せん。わたしたちも知っていると言いながら現象だけを見て知っているということが、この世には 多くあるのではないでしょうか。  

 

 「土はひとりでに実を結ばせる」のも不思議なことです。「ひとりでに」というのは種を蒔いた 人の力とは関係なく、何らかの力がそこに働かなければ起こらないことと言えます。種自身の力と も言えなくもありませんが、種は誰かに蒔かれなければ何も起こりません。そういう意味では種が ひとりでに芽を出したのではないのです。もちろん、人は種がどんな条件で発芽しどのような気温 で成長して行くかを記録して毎年の収穫に備えていくことができます。繰り返して行く中でもっと もよい収穫を得ることができるよう努力していきます。毎年それによって命の糧を得ていきます。 土の力は素晴らしいものです。その土を与えてくださったのは創造主である神です。わたしたちの 間で始まった「神の国」も条件さえ整えば、人が気づかないうちに大きく実を結ぶのです。  

 

 イエスは人々のために十字架の死を受け、復活したのちに永遠の祭司、王であるキリストとして 現れました。父から約束されていた聖霊を弟子たちに注ぎ、教会を始められました。教会はキリス トと御父から受けた賜物に恵まれ、愛と謙虚と自己放棄のおきてを忠実に守るとともに、キリスト と「神の国」というものを告げ知らせています。教会はすべての人々の内にみことばを告げ知らせ、 世を変えていく使命を帯び、地上における「神の国」の芽生えとなっています。今日のたとえでわ かる通り、教会は徐々に発展していきますが、それはわたしたちには見えない神の力が働いている からこそなのです。わたしたちには神の力は見えません。しかし、神の力の表れである教会の働き は目に見えるのです。つまり、教会の働きによって「神の国」の神秘がわかるのです。「神の国」 はイエスによってはじめられました。わたしたちもそれを目に見える形で実現していくことができ るよう願い求めましょう。 

2024.5.19

 キリスト教の学問である神学があるのは自分の知識を増やすことが目的ではありません。キリスト者の信仰を、希望をもって表明するための道具として使うためのものです。皆さんが受けた信仰、皆さんが確信している信仰、そしてその確信に生きて行こうしている信仰を自分自身の言葉で語ることが「神学する」ことの目的なのです。ですから、キリスト論や教会論、あるいは聖書学や典礼学、宣教学など様々な神学の分野はすべて、信仰をいろいろな形で表現する道具にすぎないとも言えます。

 

 例えば使徒聖ペトロの手紙に次のように書かれています。「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい」(一ペトロ3・15-16)と。わたしたちキリスト者は、信仰の希望に満ちた表明を求められたら、喜んで表明しましょう。「神学する」ということは学問の世界だけの話なのではなく、わたしたち自身の生き方にかかわることなのです。皆さんのうちに持っていて、確信し、それに生きようとしている信仰を皆さんが知り、語るために神学をするのです。ですから、自分の信仰の中にある希望を語るということが神学することであるとするなら、皆さんも神学していることになりますし、自分の受けた信仰をいろいろな形で表現しているのです。

 

 では希望を語るためにはどうすればいいのでしょうか。第一に「信仰」が必要です。これなしには何の希望も語れません。第二に「聖書」です。聖書はキリスト教信仰のよりどころですから信仰を語るにあたっては聖書をひも解く必要があります。第三に「勇気」です。最後のこの言葉に「おやっ」と首をかしげたくなるかもしれません。なぜ「勇気」が必要なのでしょうか。「神学する」にはキリストのメッセージをしっかり見極めなければなりません。もしかしたらその見極めの過程において自分が持っていた信仰の形が自分勝手な信仰理解だったことに気づくかもしれません。また現代をキリストともに歩む教会が何を目指しているのかも知らなければなりません。もしかしたら、それを知ることはわたしたちの信仰のイメージを壊してしまうかもしれません。さらにわたしたちの信仰の表現は今の世に対して行われるものですから、今の世が何を求め何に悩んでいるのかを知らなければなりません。そんなときに、今まで持っていた理解を変えていく「勇気」が必要になります。そしてまた自分の信仰の中の希望を語ろうとするとき周りの人に表明するわけですから、大変な「勇気」が必要となるのです。

 

 イエスの死に直面した弟子たちは、当初、ユダヤ人におびえて家に隠れて鍵をかけたり、失望してみんなから離れていったりもしました。第一朗読の出だしも「一同が一つになって集まっている」とありますから、まだおびえていたことを表していると思います。その後、弟子たちが聖霊に満たされ、いろいろな地方の言葉で神の偉大なわざを語り出したことが描かれています。失望していた弟子たちは勇気をもって全世界の人々にイエスのことを宣べ伝え始めました。これはものすごい変わりようです。使徒たちの宣教の 2 章 2 節から 4 節の間に描写されていることは、聖霊降臨の描写だと考えられています。この記述は 2000 年前の人々にはとっては何かがあってどうしてこのように表現されたのかを理解できたでしょうが、現代のわたしたちにはどういう状況かうまく理解できません。しかし弟子たちはここで示されたような何らかのきっかけによってて、勇気をもって福音を宣べ伝え始めたことは確かなことです。

 

 洗礼によってキリスト者となったわたしたちも、ここに描かれた弟子たちと同じ聖霊を受けて、福音を宣べ伝えるよう導かれています。聖パウロはガラテヤの教会への手紙で、霊の導きに従って歩みなさいと言っています。聖霊に生きる者はその導きに促されて自分のなすべきことを神の前に「判断し」「確信する」ことができるのです。もし何かを「確信し」「判断する」勇気をもつことができなければ、聖霊に導かれて生きているとは言えません。使徒聖ヨハネは福音書において、聖霊、ここでは真理の霊と言われていますが、それはわたしたちにとって弁護者であり、いつもわたしたちを助けてくださり、真理を悟らせてくださると言っています。聖霊はわたしたちが今生きている状況に応じて、イエスの言葉を思い起こさせ、イエスの教えの本当の意味を悟らせてくださるのです。病気をしたり、何かに失敗したりしたときにも聖霊を通して神の力が働いていることをわたしたちは知っています。ですからわたしたちは苦しくてつらいときも決して失望することなく信仰と希望をもって歩むことができるのです。今日聖霊降臨を記念するわたしたちがキリストの言葉を、勇気をもってこの世に響かせていくことができるように祈ってまいりましょう。

2024.5.5

 今日の福音は先週のぶどうの木の続きです。11 節に「これらのこと」とありますが、これは先週のぶ どうの木のたとえのことです。ぶどうの木のたとえを話したのはイエスの喜びがわたしたちの内にあり、 わたしたちの喜びが満たされるためであるのです。人がイエスにつながっており、キリストがその人に つながっていれば、その人は豊かに実を結ぶのです。それがわたしたちの喜びとなるのです。

   ところで、先週の福音では「愛」という言葉が語られていません。つながっていなさいという言葉で 終わっていました。イエスとつながることが「まずは」必要なことなのだということを示しています。 今週はさらに進めて「わたしの愛にとどまりなさい」と言っています。それは「わたしの掟である」と まで言っています。先週、わたしはぶどうの木、わたしにつながっていなさいと言われました。これは、 いわば神とのつながりを言っているといえます。今日の福音は、「互いに愛し合いなさい」「友のため に自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」そして「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と言 われました。これはいわば隣人とのつながりを言っているといえます。

 十字架の木は縦と横の木が交わっている形になっています。たての木は神とつながっていることを意 味し、よこの木は隣人とつながっていることを意味しているとも言えます。その交わるところにイエス がいるのです。イエスは神であり、わたしたちと神との仲介者であり、同時に共同体の仲介者でもある のです。イエスは苦しみを受けて十字架につけられて死にました。十字架につけられて死んだイエスは、 それだけでは終わりませんでした。復活し弟子たちに現われ、復活のからだと永遠のいのちを示しまし た。そこにわたしたちの救いと希望が表れているのです。

 先週の福音では、「わたしにつながっていれば豊かに実を結ぶ」と言われました。イエスとつながる ことが大切だと知りました。次にどうすればいいのかが今日の福音に描かれています。今日の福音では、 「わたしがあなたがたを選んだ。実を結び、実が残るように、そしてわたしの名によって父に願うもの は何でも与えられるように任命したのだ」と言われました。イエスにつながることはわたしたちの選び のように見えますが、その決断に至るあいだにイエスがわたしたちを選んでいるのです。選ばれた人が、 そのことを喜ぶだけではなく、ほかの人々のために働くという使命が与えられているのです。

 互いに愛 し合いなさい。掟とか命令という言葉が出てくるので、押し付けられているような感じを受けるかもし れません。これは、イエスが命令するのだから守るべきものだという風にとらえてはいけません。「わ たしがあなたがたを愛したように」ということばが前についています。イエスがはじめに弟子たちを愛 したのです。 弟子たちはイエスに選ばれたものとして周りの人々に対してイエスが行ってきた愛を行います。イエ スの愛を知っていれば、周りの人々に対しても愛さざるを得ないはずです。わたしたちのそういう行動 がイエスの愛の上に成り立っているのです。根底にイエスの愛があって、それによってわたしたちも互 いに愛し合うということなのです。イエスが示された究極の愛は、わたしたちの罪のために十字架につ けられたことです。十字架をいつも仰ぐときにイエスの愛を振り返りましょう。イエスが「互いに愛し 合いなさい」ということばに込められた意味をわたしたちが受け止めて歩むとき、復活したイエスがい つもそばにいて、支えてくださると感じることができるのです。

2024.4.20

 今日は世界召命祈願の日に当たります。教皇フランシスコは今年の教皇メッセージの中でこう呼びかけています。『「起き上がりなさい」。眠りから覚めましょう、無関心から抜け出しましょう、閉じこもりがちな牢獄の鉄格子を開けましょう。そうすることでわたしたち一人ひとりが、教会で、世界の中で、自分の召命を発見し、希望の巡礼者、平和の建設者となれますように。熱意をもって生きましょう。周囲の人々と、わたしたちが暮らす環境とを、愛をもってケアするよう力を尽くしましょう。・・・

聖エリサベトに対するマリアのように、わたしたちも喜びを告げ知らせ、新しいいのちを生み出し、友愛と平和を作る職人となりましょう。』

 

 さて、今日の福音でイエスは、「わたしはよい羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」といいます。ご自分のためではなく、キリストを信じるすべての人のために命を捨てるのです。人の目には、イエスの死が無駄に終わってしまったように見えます。十字架につけられて死んでしまったのです。ところが、3 日目に復活し、弟子たちに現れました。

 

 マタイによる福音では「マグダラのマリアともう一人のマリア」に現われ「『おはよう』とあいさつされた」とあります。マルコによる福音では、「まずマグダラのマリアに現われた」とあります。そのあとに田舎の方に向かう二人の弟子に別の姿で現れたとあります。ルカによる福音ではこの二人の弟子、エマオへの二人の旅人にイエスは現われました。イエスは彼らに聖書のみ言葉を解き明かし、ご自分のことについて書かれていることを解き明かしました。それでもまだ彼らは理解していませんでした。宿に着いて、食卓についたとき、イエスがパンを取り、賛美をささげて、裂いて二人に渡しました。二人はその時にこの方がイエスだと気づきましたが、その姿は見えなくなりました。イエスは別の姿で現れたのです。それはパンの形で現れたのです。わたしたちがミサの中でいただくパンの形で現れたのです。ヨハネによる福音ではマグダラのマリアに現われます。イエスが「マリア」と呼びかけるとイエスだと気づくのです。

 

 復活されたイエスの呼びかけにわたしたちは耳を傾けていかなければなりません。「主の呼びかけを識別する」というのは、生き方を識別するということです。わたしたちの召命、根本的な選択を行う過程を経て自らの召命を見いだすことです。救い主を待ち望んでいる人にキリストのみ言葉を伝えるという預言者としての召命があります。

今日の福音で「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる」と言っています。「囲いに入っていないほかの羊」というのは、神を信じているがキリストを知らない人のことかもしれません。あるいはイエスを知っているのに外に出て行ってしまった人を指しているかもしれません。このような人にキリストを告げ知らせるのがわたしたちの役目です。わたしたちもキリストを述べ伝えるという召命を生きていくのです。

 

 「主の呼びかけを生きる」というのは、福音の喜びを自分自身も生きるということです。ルカによる福音で「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ 4・21)とあります。

今日こそ、そのときなのです。キリスト者としての使命は今現在のためのものです。主はご自分に従うよう、今日も絶えず呼びかけられておられます。わたしたちは完ぺきに行える状態になるまで待つのではなく、神が与えてくださった今日この日に、その使命を生きるのです。良い羊飼いであるイエスはいつもわたしたちとともにおられます。主イエス・キリストのみ名によって、わたしたちそれぞれの召命を生きていくことができるよう祈ってまいりましょう。

2024.3.17

   今日の福音で中心となるのは 24節から 26節のイエスの教えです。その前後はイエスが栄光を受ける時 が来たことを示すための物語となっています。まず祭り、すなわち過越祭の時に異邦人が表れてイエス に会いたいと言い、フィリポのもとに現れるところから始まります。異邦人にも救いがもたらされるこ とが決定的な救いの時のしるしであることを示しています。異邦人が来たことを知り、イエスは「人の 子が栄光を受ける時が来た」と言いました。

 

    イエスは、一粒の麦のたとえを出して死と復活の意味を示します。一粒の麦はイエス・キリストを表し ています。もしイエスが十字架につけられて死ななければ、人々はそのイエスの教えを理解できないま まなのです。イエスが十字架につけられて死に、そして復活したときに多くの人々はこの一粒の麦のた とえを理解できるのです。一粒の麦は落ちて水と養分と太陽の力を得て、一粒の麦の殻を破って芽を出 し、大きく成長し、何十倍もの実を結びます。

 

 一粒の麦のままであれば、その姿のままであることはできるでしょう。しかし、いつまでそのままでい られるかは分かりません。身を守るあまり、そのまま干からびて行くかもしれません。より大きな実を 結び新しい実を結ぶことができるなら、干からびて行くより地に落ちて殻を破る方がよいのは明らかで す。

 

 イエスは十字架につけられて死に、3 日目に復活ました。永遠のいのちという大きな実を結ぶことを示 しました。だからこそ、わたしたちも殻に閉じこもって自分のためだけに生きるのではなく、自らを壊 して自分だけでなく、神とのつながりや人とのつながりを生きるべきなのです。それはまさに、生きて いるうちに自らを過ぎ越して新しい命に生きることなのです。

 

 イエスは今日の福音の数日後、十字架につけられます。現在の典礼では来週「主の受難」を迎えます。 四旬節を過ごしてきたわたしたちは、イエスがわたしたちに残したもの、示してきたものを少しずつ聞 いて理解してきました。イエスは今日の福音の後半で、父である神に呼びかけています。天からの声が 人々にどのように聞こえたかは分かりませんが、「雷が鳴った」という人もいたとあります。神の栄光 が現れたのはあなたがたのためだと、イエスは言いました。神の栄光が現れる時とは、この世が裁かれ るときであり、救いのときであり、解放のときなのです。神の栄光が現れる時とは、この世の支配者が 追放され、愛に反する支配者に対する決定的な勝利なのです。

 

 「わたしに仕えようとする者は、わたしに従えば、わたしとともにいる」とイエスは言われました。わ たしたちもイエスの十字架の死と復活に従って歩みましょう。日々の生活の中では、イエスの受難、十 字架上の死、復活を思い起こすことは難しいかもしれません。しかし、わたしたちは自分の殻を破って 自分を過越して行くことができるのだとイエスは教えられました。それによって、わたしたちは神と人 とに仕える者となっていくことができるのです。 

2024.3.3

 復活徹夜祭に洗礼を受ける人のために四旬節が準備期間としてもうけられています。洗礼を受ける人 のために教会はキリスト教生活の大切な基礎である「使徒信条」と「主の祈り」を授けます。「使徒信 条」は四旬節第1主日のミサの中で洗礼志願式で授与されます。「主の祈り」は四旬節に入る数か月前 に行われる入門式で授けられます。わたしたちもこの基本の祈りを心にとめ、その意味内容を調べてみ る時にしてはいかがでしょうか。洗礼志願者のいない教会であっても全世界の洗礼志願者のためにわた したちは心を合わせて祈りましょう。

 

    今日の福音で、イエスは神殿で商売をしている者たちを蹴散らします。そのイエスの姿は一見、わた したちにとっても気持ちのいいものではありません。しかし、イエスの心を動かし導いているのが何で あるかを明らかにしてくれるものです。 「わたしの父の家を商売の家としてはならない。」 神殿本来のあり方が失われているのを見てイエスは神殿から商人を追い出します。当時の神殿が人々を 救うためにあるということから逸脱しているのを見て、イエスはご自分が神殿を清め、立て直すと言わ れるのです。

 

 「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」 『あなたたちがずっと神殿を壊し続けるならば、わたしはメシアの時代を開き新たな神殿を建て る』とイエスは言っているのです。牛や羊や鳩はもういらないです。イエスご自身がそれに代わる 犠牲となったからです。つまりこの言葉にはイエスの十字架の死と三日後の復活を意味していると 言えます。わたしたちの救いのために十字架につけられた神の子イエスのことばです。パウロが言 うように、それはほかの人にとってつまずかせるものかもしれませんし、あるいは愚かに思うもの かもしれません。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」のです。だからこそわ たしたちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。

 

 神殿は祈りの場です。同時にわたしたち自身も神の霊の宿る神殿なのです。心を落ち着けて神と 対話する場所です。神の神殿、つまりわたしたち自身が祈りの場でなくなったら悪霊が住み着いて しまいます。わたしたちも祈りの中で神との時間を大切にしていきましょう。祈りのうちに神の神 殿であるわたしたち自身をきれいに保ち荒らされるのを防ぐようにしましょう。そうすることでイ エス・キリストと共に結ばれた教会として歩んでいくことができるのです。

2024.2.18

    今日の福音は非常に短い個所ですが、2つの部分から構成されています。1つ目はイエスが活動をする 前の誘惑の場面と、もう1つはイエスの活動開始の場面です。誘惑の場面では40日間荒れ野にとどまり サタンに誘惑を受けられたとあります。この40日間というのが四旬節の原型となりました。

 

  「誘惑を受けられた」というところはフランシスコ会訳聖書では「試みられ」と翻訳されています。 ギリシャ語の語源では「誘惑」も「試み」も同じ言葉です。主の祈りで使われている「わたしたちを 誘惑におちいらせず」は、昔は「われらを試みに引きたまわざれ」と唱えていました。どちらも同じ 言葉なのですが意味合いが日本語では異なるので誤解がありました。悪魔からの誘惑なのか、神が与 える試みなのかという違いです。今は悪魔やサタンからの誘惑におちいらせずという訳になっていま す。そういう誘惑にあってもそこに陥ることのないようにお守りくださいという祈りになっています。 四旬節の40日間、常にその祈りを心に留めていくことをお勧めします。

 

  カトリックでは「神からの試練」という考えはありません。ところが、何かつらいことや苦しいこと があると、それはわたしたちを鍛えるために神が与えられた「試練」であると考えてしまうことがあ ります。聖書では、神は一人ひとりの命をこよなく、かけがいのないものとして愛して下さっている というメッセージに満ちているのですが、それと「神からの試練」という考えがどうもしっくりきま せん。そんなにもわたしたちを無条件に愛して下さっている方が、はたして人間を「試し」たりなさ るのでしょうか。

 

    むしろ、わたしたちが神を試してしまっていることがないでしょうか。神がわたしたちをよいものと して造り上げたにもかかわらず、そのわたしたちが神を試してしまっていないかということです。世 の中でいろいろな困難にぶつかったときに、なぜこのような試練を与えるのかと神に訴えることがな いでしょうか。試練は悪魔やサタンが与えるものと聖書に書いているのに、なぜ神は何もしてくれな いのかと考えてしまうのです。もっと言えば、神は全能のお方なのになぜこの試練を取り除こうとな さらないのかと考えます。そして、いつの間にかわたしたちの中では、神がこの試練を与えているの だという考えにすり替わってしまいます。

 

    大災害が起こったときもそうです。神は人間の命を奪うことを甘んじて眺めているのかと、あるいは 神であればこの大災害は防げたのではないかと考えてしまいます。この考えには神に対する人間の試 みがあるのではないでしょうか。すべては人間の欲望や欲求からくる「誘惑」であり、わたしたちを 神から離れさせてしまう「試み」なのです。わたしたちは苦しみや悲しみの中にある時にこそ、むし ろ神はそれを共に担ってくださるお方だと考えるべきです。

 

    「時は満ち、神の国は近づいた。」 このことばは神の恵みを表します。神の国が近づいたのです。だからわたしたちは「悔い改めて、福 音を信じ」なければならないのです。神の恵みが来たのだから、心をあらためて神に立ち帰るのです。 心と生き方の方向転換をしなければならないのです。自分に与えられた試練を神は自分とともに担っ てくださっているのです。イエスは十字架の死に至るまでずっとサタンの誘惑にさらされていました が、最後までそれをはねのけられました。わたしたちにはそのイエスがいつも共におられるのです。 そこにわたしたちがそれぞれの苦しみに耐えていく源があるのです。 

 

2024.1.21

     1 月 18 日からキリスト教一致祈祷週間が始まっています。同じキリストを信じる者として一致を目指 して歩むことを願い、祈りをささげる週間です。キリスト教は分裂の歴史をたどってきました。まず 1054 年のときの東西大分裂、ローマとコンスタンチノープルの分裂です。カトリックと正教会の分裂で す。次に 1517 年の宗教改革、カトリックとプロテスタントの分裂がありました。もともと一つであった ものが人の考えによって分かれていったことは残念なことです。どうすればいいのかを考えるヒントと して、今日の聖書と典礼の 7 ページのアベイヤ司教様のコラムを読んでみてください。

 

    今日の福音は最初の弟子たちの召命、イエスに呼ばれて弟子になる場面が読まれました。イエスが直 接声をかけます。マルコはイエスの教えを詳しく描いていませんが、シモンとアンデレ、ヤコブとヨハ ネはそれまでにイエスのことを聞いたり、あるいは言っていることを吟味したりしていたのではないで しょうか。イエスと何回か話し合いをしたのかもしれません。しかし、マルコはイエスが弟子となる人 たちに直接呼びかけておられるとだけ描いています。神の呼びかけが自分たちの意志によるものではな く、神が選んで呼びかけているのだということを強調しているのだと思もいます。

 

    わたしたち自身のことを考えてみましょう。自分から進んで信仰に入っていったと考える人もいるで しょう。イエスの素晴らしさを知り、イエスに従っていこうと思った人もいるでしょう。幼児洗礼であ れば、親に洗礼を受けさせられたと思っている人もいるでしょう。いずれにせよ、自分や親がイエスに 倣って生きていこうとして選んできたと感じているでしょう。しかし、自分たちが選ぶ前にイエスが自 分を呼んでくれたのだということが大切な視点です。だからイエスを選ぶことができたのだという感覚 です。自分はなぜここにいるのかと振り返ったとき、わたしが選んだというよりも実はイエスがわたし を呼んでくださったからなのだと感じることがあると思います。神の選びというのは、実に不思議です。 人を神が選ぶのは、その人が優れているかどうかとは関係ありません。神の計画の中で、神のみこころ の中で、すべての人の救いのために必要とされている人を神は選ばれるのです。

 

     最初の弟子となった 4 人ですが、みんな漁師でした。無学な普通の人でした。無学と言っても、律法 についての教養があまりない人だっただけです。特別な教養があるわけでもないごく普通の人であった わけです。そういう人がイエスに従う選択をしたのです。イエスのことはいろいろ聞いていたけれども、 実際に「わたしについて来なさい」と声をかけられてうれしかったのではないでしょうか。イエスがま ず呼んでくれたのですから。

 

    わたしたちはどうでしょう。特別イエスに従うという決断をしたでしょうか。あまりそうは思わない のではないかもしれません。しかしイエスはわたしたちの中にあるそれぞれの宝を見いだしておられ、 それを生かすよう望んでおられるのです。それに気づいたわたしたちもほかの人の中にそれぞれの宝を 見つけ、それこそ神の福音なのだと伝えるのです。イエスと同じくわたしたちも『時は満ち、神の国は 近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と伝えていくことができるのです。自分のすべてを神に向け 直し、イエスの福音に信頼して自分をゆだねていきましょう。それによって神の国は始まっていくので す。 

 

2024.1.7

  今日は「主の公現」の祭日です。「公現」は公に現れると書きますが、語源をたどると「外に輝き出る」という 意味のギリシャ語からきています。神の栄光がキリストにおいて外に輝き出てすべての人に明らかにさ れたということを祝うわけです。そして祝うと同時にそれをまだ知らない多くの人々にわたしたちが伝 えていかなければならないということを意味します。

 

   さて、今日の福音で読まれた「占星術の学者たちがイエスを拝みに来る」という物語は、このマタイ福音書 でのみ伝えられているものです。占星術の学者たちは「東の方から来た」とありますからユダヤ人ではあ りません。彼らは星の導きによってユダヤの地に生まれたイエスを礼拝しに来ました。つまり、ユダヤ人 ではない諸国の民の代表として、彼らの信仰のあらわれとして星を通してイエスのところに導かれたと いうことです。つまり、この学者たちが幼子を訪れたことは、イエスによってもたらされた救いが民族の 壁を越えてすべての人にもたらされるということを示しています。ですから、三人の占星術の学者たちに よって代表されたすべての民が信仰によって万物の創造主を礼拝するように願っているのです。イエス の誕生はユダヤ人のためだけではなく、すべての人の救いに関わることであるということを今日の福音 は伝えています。

 

    今日のパウロの手紙でもそれを伝えています。パウロは「福音によってキリストが約束されたものを、異 邦人もわたしたちと一緒に受け継ぐのです。また、同じ体に属し、同じ約束にあずかるのです」と言ってい ます。第 2 バチカン公会議の教会憲章の初めにはこう書かれています。「キリストは諸民族の光である。公 会議はすべての造られたものに福音を告げることによって、教会の上に輝くキリストの光を通してすべ ての人を照らすことを切に望む」と。 わたしたちは毎年、待降節にイエスが生まれた場面を作り、今日の 福音と同じように占星術の学者たちを置いて、飾り付けをします。これは多くの人の目に留まることでし ょう。それによって教会から神の栄光のあらわれが少しでも知られていくのではないでしょうか。

 

    今日の福音朗読の後半では学者たちがイエスを拝みに行った場面が描かれています。占星術の学者たち は星の光に導かれて救い主を見ました。幼子のいる場所の上に止まったその星を見て喜びにあふれまし た。学者たちはその星の示すものが救い主のしるしであると知っていたのです。家に入ってみるとマリア と共におられた幼子に対してひれ伏して拝みました。母マリアとともにおられた幼子を見つけ学者たち は喜びに満ちあふれました。マタイ福音書では「家」としか書かれていませんが、学者たちが星に導かれよ うやく見つけた「救い主である王」は、本来王が住む王宮の中ではありませんでした。ベツレヘムという小 さな町で泊まるところもなくて、飼い葉おけに幼子が寝かされるようなところにいたのです。そして占星 術の学者たちは幼子イエスを拝み贈り物をささげ、精一杯の敬意を示しました。

 

    この学者たちのように、わたしたちも幼子として来られたイエスに感謝して喜び祝いましょう。そしてわ たしたちがこの喜びを自分たちだけのものとしないで多くの人々と分かち合っていきましょう。キリス トを知らない、あるいは信じない人であっても、いろいろな形で神を感じていると思います。一年の初め にあたって神社に初詣をしたり初日の出を拝んだりする人がたくさんいます。そういう人たちも意識し ていなくても、また毎年の通過儀礼としてであっても、何らかの神の力というものを感じて行動をしてい るのではないでしょうか。そのような力に守られて一年無事に過ごすことができますようにと願う心は 共通するものがあるでしょう。大きな災害や航空機の事故で始まった 2024 年です。まだ戦争は続いてい ます。しかしながらわたしたちはいつも祈りのうちに平安を願いましょう。またキリストが来られたこと の喜びを伝えていくことができるよう祈り求めましょう。

2023.12.24

    今日はマリアに神のみ使いが神のお告げを伝える出来事が読まれました。イエスの誕生に先立っ てイエスの母となるマリアに同意をとることを望まれた場面です。創世記でエバという女性が死を もたらす原因となりましたが、マリアという女性がいのちをもたらす役割を果たすために神は選ば れたのです。キリスト教の初めのころの教父たちの間では神の母が聖霊によって造られ、新しい被 造物に形づくられた者として完全に聖なる者、あらゆる罪の汚れを免れた者と呼ぶ習慣が広まって いきました。

 

    神の命令によって天使から「恵まれた方」というあいさつを受けたナザレのおとめは「わたしは 主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と答えました。アダムの娘であるマ リアは神のことばに同意してイエスの母となり、いかなる罪からも守られ心から神の救いの御心を 受け入れました。主のはしためとしてご自分の子とその働きに完全に自分をささげ、子のもとで子 とともに全能の神の恵みによってあがないの神秘に奉仕したのです。

 

    マリアが単に神に用いられたのではなく、自由な信仰と従順をもって人類の救いに協力したので す。キリスト教の初めのころに聖イレネオという教父がいました。古代教父のうちの多くの者が説 教の中で聖イレネオの言葉を引用しています。「エバの不従順のもつれがマリアの従順によって解 かれ、おとめエバが不信仰によって縛ったものを、おとめマリアが信仰によって解いた」と好んで 話されました。  

 

    天使のお告げの時には戸惑い、また問いかけて、最後にはすべてを受け入れました。イエスが成 長して行くときも、イエスの奇跡を見るときも、最後に十字架のもとでのイエスを見守るときも、 神の国の完成に至るまで聖母マリアの役割は絶えることなく続きます。マリアは天に挙げられたの ちもこの救いをもたらす務めをやめることなく、数々の執り成しによってわたしたちに永遠の救い のたまものを得させてくださいます。まだ旅を続けているわたしたちと危機や困難の中にある兄弟 姉妹が、幸せな神の国に至るまでもマリアは母としての愛をもって守ってくれています。

 

    主イエスを待ち望みましょう。すでに来られた方であり、ふたたびわたしたちを救いに来られる 方を待ち望みましょう。「主はあなたと共におられる。」天使ガブリエルからマリアに告げられた 言葉ですが、ナタンがダビデ王に告げた言葉でもあります。イエスが来られたのは、わたしたちを 罪に定めるためではなく、わたしたちを救うためなのです。わたしたちもマリアにならい、愛と喜 びをもって主を迎え入れ、主と共に生きる者となれますように祈り求めてまいりましょう。

2023.12.3

   「待降節」と訳しているアドベント(advent)という言葉はもともと「到来」とか「来臨」という意味の言葉 です。2000 年前にイエスが世に来られたことを思い起こしながら、栄光のうちに再び来られること を待ち望む 季節となります。その二つの意味での「到来」とそこに向かう人間の姿勢としての「待望」がこの季節のテー マです。今日は先週の「王であるキリスト」のテーマを受け継いでいて「目を覚ましていなさい」という終末 に向かう姿勢が示されている個所が読まれました。

    新しい「ローマ・ミサ典礼書の総則」に基づく変更が 2015 年の待降節から適用されミサの中での所作が変更 となったのはご存じだと思います。信徒の皆さんが待降節にできることとして次の言葉が加えられています。 「主の誕生の満ちあふれる喜びを先取りしないようにする」ということです。例えば聖体拝領後の沈黙の時間 にオルガンのみの演奏をしないとか、花を飾ることを控えるということがあります。待降節や四旬節はもとも と花の少ない時期ですので助かる側面もあります。

    教会ではアドベント・リースと言って 4 本のろうそくを日曜日ごとに順に 1 本ずつともしていきます。少しず つ救い主の到来が近づいているということが目に見える形で示されていきます。待降節にクリスマスの飾りを 少しづつ作っていくことも主の降誕の準備として良いことだと思います。あまりよく知られていないと思いま すが、クリスマス・ツリーは待降節の信心ではなく、降誕節の信心であると 2001 年に発表された典礼秘跡省の 指針『民間信心と典礼』に述べられています。

   この指針の中では待降節の信心について次のように締めくくっています。「クリスマスの商品化や消費の軽 薄さに脅かされることが少なくない待降節の多くの価値を守るため、キリスト教の神秘を理解するその直観ゆ えに、民間信心は効果的に貢献しうる。民間信心は喜びに満ちた単純さ、貧しい人や抑圧された者への配慮と いった雰囲気なしに主の降誕を祝うことはできないと理解する。主の降誕への待望に、わたしたちは命への価 値とそれを敬い受胎の時からいのちを守る務めがあることを気づかせる。」(典礼秘跡省の指針『民間信心と 典礼』105 番)

    世間ではきらびやかなイルミネーションや幻想的な飾りをしていて、やり過ぎではないかと感じるくらいの ものもあります。世間では「クリスマスは」祝う時期とのかねあいで歳暮や年末の商売の効果を上げるために 利用されているのが現実です。しかし、キリスト者は本来の精神である喜びに満ちた単純さ、貧しい人や抑圧 された人への配慮を心がけなければならないのではないでしょうか。そして、主の降誕への待望に命への価値 と受胎の時から命を守る務めがあることをわたしたちに気付かせてくれるものであるはずです。その意味で待 降節はその名の通り「待つ」ということと「愛と喜びに包まれた時」であることが特徴だといえます。

   ところで終末のメッセージとしては 2 つの側面があります。一つは悪が栄える時代はいつか終わり、神の新 しい支配が訪れるというものです。迫害の中にある信仰者を励ます希望のメッセージです。もう一つは日々の 出来事に追われて大切なものを見失っているときに、神の目によって何が大切なことなのかを示す警告のメッ セージという面があります。今日の福音はどちらかというと警告のメッセージでしょう。この警告のメッセー ジは絶望のメッセージではありません。普段は忘れているかもしれないキリストが来られる日がいつ来てもい いように備えていなければならないのです。

   キリストが来られる日はわたしたちの救いが実現する日ですから、希望の日となるはずです。待降節のテー マはわたしたちが待ち望むということだけではなく、神が現れて決定的な救いを与えてくださることに信頼す る季節でもあるのです。わたしたちは黙って待っていれば救いが来るのではないと分かっています。イエスが 現代のすべての問題を解決してくれるのではないことは分かっています。今どうするかはわたしたちの問題で あることは分かっています。黙って待つのではなく積極的に起こっていることを知り、解決していく必要があ るのです。それこそがわたしたちの備えであり、その上で待つことが必要なのです。

2023.11.19

    先週の福音に続き、今日のタラントンのたとえでも主の再臨に備える方法が示されます。5 タラントン を預かり 5 タラントンもうけた者も、2 タラントン預かり 2 タラントンもうけた者もどちらも主人に褒 められました。しかし、1 タラントン預かった者はただ隠しておくだけで何も増やすことなく主人に返 しました。この違いを今日の福音ははっきりさせています。

    神から与えられたものを使っていくこと 、 利用していくことがまず求められているのです。もし、5 タラントン預けられた人も 2 タラントン預け られた人も損害を出していたとしたらどうでしょうか。その場合 1 タラントンを地に埋めておいた人が 褒められるのでしょうか。そんなことはないでしょう。問題となるのは神から与えられた賜物をどう 使っていくかということであって、使っていかないならば何の役にも立たないのです。

    イエスご自身の生き方を見ると、その受難、十字架上の死というものがすべてを失っていく生き方に見 えます。それはまさに神の恵みをすべて奪い取られる瞬間に見えるからです。むしろ損害を出している ように見えるかもしれません。しかし、それでは終わらないのです。損害どころか、より大きな恵みが 与えられるということがわかると思います。神の恵みは永遠のいのちへと導いていくものだからです。

    パウロのテサロニケの教会への手紙の最後に「ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を 慎んでいましょう」とあります。「身を慎んでいましょう」ということを 1 タラントン地に埋めておく ことと解釈してはいけません。何もせずにじっとしているということではないのです。どちらかと言え ば、常に用意ができているという意味のことばです。常に用意ができているということは、常に神の恵 みを生かそうとしている状態を言います。

    聖書の中で妻と夫というのは教会とキリストとの関係を表しているとカトリック 教会は考えます。箴言 で読まれたところはまさしくそうで、有能な妻である教会と、教会を心から信頼している夫であるキリ ストを示しています。ですから、この朗読個所を単に夫婦関係に当てはめてはいけないのです。ここは キリストの花嫁である教会の完成形を描いていると考えなければなりません。この教会の姿は神から与 えられた賜物を生かしていく姿であると言えます。「夫は心から彼女を信頼している。儲けに不足する ことはない。」今日の福音のタラントンのたとえにつながっていきます。わたしたちにも与えられた賜 物があるはずです。神が与えてくださった賜物を、大切に保管していくことではなく、あるいはただ先 延ばしにするのではなく、生かしていくことを常に考えていきましょう。

 

2023.11.4

 聖書はだれのために書かれたものでしょうか。それは言うまでもなく、神を信じる人たちのために書か れたものです。福音書の成立を考えると、信者の必要性があって文字にして残したと思われます。イエ スの直接の弟子たちがいたころは、まだイエスの教えを正しく正確に伝えることができました。しかし、 直接の弟子がいなくなると、イエスの教えが少しずつずれていったのではないかと考えられます。そこ で、記憶が定かなうちに記録に残すようになりました。新約聖書で一番古い文書は、パウロのテサロニ ケの教会への手紙です。今日読まれた手紙です。紀元後 46 年ころと言われています。イエスがなくな ってから 16 年後くらいです。そういう手紙も参考にしながら、まずマルコによる福音書が書かれまし た。紀元 60 年代と言われています。

 

 今日のマタイによる福音書は紀元 70 年代と言われてています。マルコの文書をもとに付け加えたり、修 正されたりして書かれました。今日の部分もマルコではわずか 3 節のみですが、マタイでは 4 倍の 12 節 になっています。特に、最後の 3 節はイエスの直接の言葉ではなく、教会が付け加えたものと考えられ ます。「あなたがたの教師はキリストただ一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕 える者になりなさい。」教会が伝えてきたことで、最も大事なことはここではないかと思います。「仕 える者になりなさい。」まさしくイエスの姿そのものです。イエスの姿は人々の重荷をともに負うこと です。「言うだけで実行しない」「指一本貸そうともしない」のでは、キリストにならう生き方とは言 えません。

 

 今日の個所でわたしたちが陥りがちなのは、聖職者に対する非難です。あるいはもっと広げて政治権力 に就いている人々に対する批判の手段として利用する読み方です。確かにそういう人たちの中には「言 うだけで実行しない」「指一本貸そうともしない」という者がいるかもしれません。福音書はすべての 信者のために編集され残されたものです。ということは信者すべてに向かって語られているのです。わ たしたち信者の中にも、ファリサイ派や律法学者のようになる危険があるということです。わたし自身 彼らのような面がないとは言い切れないところもあります。いいことを言いたいとか、よく見られたい という気持ちもあります。そういう点が、キリストを師と仰いで生きていくことを妨げているところな のではないかと思います。

 

 第 2 バチカン公会議で聖職者中心主義はあらためられました。司教と司祭団が教会の牧者であることと 並んで、神の民のメンバーである信徒の使徒職、共通祭司職、預言職についても示されています。なん でも司祭がリーダーとして活動したり、ミサをささげたり、神のことばを伝えるのではなくなったとい うことです。教会の中で、司祭が先生、父、教師であり、信徒が生徒であるという構図はもう捨て去ら れています。すべての構成員によって教会は強められるのです。また、必ずしも司祭の知識が信徒の 方々より勝っているわけではありません。信徒の中にも聖書の翻訳をしたりする人もいれば、神の愛に 生きて奉仕活動をする人もいます。「あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。」「あなた がたの教師はキリスト一人だけである。」第 2 バチカン公会議後、教会は何を中心とするのかというと キリストを中心とするのです。信者は皆兄弟です。誰が先生でだれが生徒かということはありません。 お互いに神の福音を伝えるように努めましょう。それはキリストの生き方をまねることであり、キリストの生き方を実行していくことにつながります。

 

2023.10.15

 

 今日の聖書のたとえは天の国のたとえです。ある王子が結婚披露宴を催すことが語られています。この 婚宴とは、神と人とが結ばれる場を示しています。そこに招かれることは何と素晴らしいことなのかと いうことに気づくことを求められています。

 教会は神によって召された人々が集う共同体です。神の呼 びかけに気づき、自分が神に召されていることに同意して集っているのです。旧約聖書におけるイスラ エルの召命、神の選びが初めにあって、最後に新約聖書の中でイエス・キリストによる契約があり、教 会という共同体ができたのです。わたしたち信者一人ひとりが、神に召されて聖なる者となった人たち の集いの中にいるかどうかが大切なことなのです。

 ところで、わたしたちの信仰や救い、キリスト者としての使命は個人的なものではありません。あるい は道徳的に守るだけのものでもありません。教会という共同体の中で救いを信じ、そのためにできるこ とをみんなで行っていくのです。自分は神に言われてきたことはすべて守ってきましたと言うだけでは 足りないのです。それだけでは個人的なこと、あるいは道徳的なことで終わっています。もう一歩進ん で共同体的なことにまで踏み込むことが救われるために必要なのです。神は「善人も悪人も皆集めて」 「婚宴は客でいっぱいにな」ることを望んでおられます。神に祈り道徳的に素晴らしい人であっても、 自分の周りにいる人々と共に歩まないなら、神の招きを断っていることになるのです。

 さて、今日の福音は 11 節から 14 節が省略できるようになっています。「婚礼の礼服を着ていない者が 一人いた」という言葉が、悪人という言葉にかけられて「悪人の一人」と見られる危険性があるからだ と思います。つまり、やはり悪人は裁かれるのだ、あるいは裁かれるべきだと短絡的に考える可能性が あるから省略してもよいことにしたのではないかと思うのです。勝手に連れて来られたのに礼服を着て いないと言いがかりをつけられて、手足を縛られて暗闇に放り出されるとはなんと恐ろしいことかと考 えてしまいます。そうすると、その前の善人も悪人も集めて、婚宴をいっぱいにしたのは何なのかと思 ってしまいます。

 11 節からはこの急いで集めてきた人々のことではなく、初めに正式に招待された人々の中の一人と考え られます。最初の呼びかけに何かと理由をつけてほとんどの人が来ませんでした。神の呼びかけに対し て、それ以上に優先する理由をもとに婚宴に行かなかったのです。その中で断る口実を見つけることが できなかったので、仕方なく婚宴に出かけて来た人であると考えられます。礼服を着ていなかったとい うのは嫌々婚宴に来た人を表していると言えるでしょう。呼ばれて来てみたが婚宴の意味を理解してい なかったか、あるいは婚宴を否定していたので礼服を着ていなかったのでしょう。旧約聖書におけるイ スラエルの召命、神の選びがあったのに、イエスの呼びかけによる教会という共同体を否定している者 を表していると言えます。

 神の掟を守るだけではなく、神の愛を受けて人を愛することができるかということが、礼服を着ている かどうかということに表されているのです。ここ 3 週間、福音は「祭司長や民の長老たち」に語られて います。イエスの福音を聞いても信ぜず、自分たちの信じていることにかたくなになっている人、つま り祭司長や民の長老たちのことをイエスは言っているのです。わたしたちはそのようなことはありませ ん。天の国で行われている典礼をわたしたちもこの地上の教会で行っています。天使と共に声を合わせ て信仰を宣言することで礼服を着て、地上に神の国を実現していくことができるよう願いながら、祈りを続けましょう。

2023.9.17

 

   マタイ福音書の 18 章は、教会共同体の生活や教会内の対人関係を教える個所となっています。子ど もを受け入れること(1-5 節)、小さい者をつまずかせないこと(6-9 節) 、迷い出た羊のたとえ(10-14 節)、そして罪を犯した兄弟を見失わないようにすること(15-20 節)です。

    一貫して問われている のは、共同体の中にいる弱いメンバーに対する配慮を欠かさないということです。きょうの箇所はそ の結びの部分で、罪を犯した兄弟に対するわたしたちのゆるす態度について述べられています。

    今日の福音は兄弟からの罪を何回ゆるすべきかというイエスとペトロの会話で始まっています。ペト ロは 7 回もゆるせば十分ではないかと考えているようですが、イエスは 7 の 70 倍までもゆるしなさ いと言っています。事実上無制限にゆるしなさいということです。ペトロはゆるしについて、償われ て当然の損害に目をつぶり我慢することと考えています。罪があっても償ってくれるならゆるしまし ょうと言っているのです。しかし、我慢にも限界があります。だからペトロは 7 回までなら我慢しま すという考えなのです。

    イエスは違います。ゆるしは犠牲なのではないということです。ゆるすこと によって失われるものは何もなく、むしろ良いものを得ることができるのだと考えています。良いこ とが得られるなら限度はないはずです。何度でもゆるしていいものが得られるのです。イエスは、罪 によって被った実際の物質的な被害よりも、兄弟の交わりが損なわれる方が大きな損害だと考えてい るのです。兄弟の交わりを回復させることがゆるしであり、そのゆるしは無限に繰り返されて当然な のです。

    そのあとのたとえを見てみましょう。「ある王」とは神のことです。「家来」はわたしたちのことで す。「家来の仲間」はわたしたちの隣人のことです。神は莫大な罪を負ったわたしたちをゆるしてく ださるのです。1 万タラントンとは普通の労働者の十数万年分の賃金に当たりますから、途方もない 金額です。ここに神のゆるしのはかりしれない大きさが示されています。どうすることもできず行き 詰ってしまってしまい、生きることができなくなってしまった人をも神は生かそうしてくださるので す。100 デナリオンとは普通の労働者の数カ月分の賃金に当たりますから、人と人との間の貸し借り においては現実的な数字です。もしわたしたちが小さな罪を負った隣人をゆるさないのなら、神はわ たしたちを罪の償いが終わるまでゆるさないのです。

    わたしたちの身の回りにある小さな罪を犯した 兄弟をゆるしましょう。 主の祈りを思い出してください。「わたしたちの罪をおゆるし下さい。わたしたちも人をゆるしま す。」わたしたちも人をゆるすなら、神はわたしたちの罪をもゆるしてくれるのです。罪をゆるすと いうことはただ単にわたしたちがゆるすことではなく、その人に対する深い共感から生まれてくるも のです。わたしたちもその人のために何とかして生きて行く道を一緒に見いだしていく必要があるの です。まず神はわたしたちの罪をゆるすのです。神がゆるすものをわたしたちがゆるさないなら、そ の裁きはすべて自分に返って来るのです。この世で神の国を実現するために互いにゆるし合い、神のゆるしを得る恵みを願ってともに祈り求めてまいりましょう。

2023.9.3

 

    なぜペトロはイエスに「サタン、引き下がれ」などと言われたのでしょうか。先週の福音を思い出してみ てください。ペトロはイエスから「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ」と祝福の言葉をいただいたので す。それはペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰をはっきりと答えたからです。今日の 福音ではイエスご自身が苦しめられ、殺され、三日目に復活するということをイエスは弟子たちに打ち明 けられました。ペトロの耳には「苦しめられ」と「殺され」という言葉しか聞こえていなかったのかもし れません。だからすぐに「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と答えたの でしょう。人間の手にかかって死んでしまうなんてあるわけがないと思ったのでしょう。

     ペトロの信仰告 白と今日のペトロの言葉を少し直して並べてみましょう。「あなたはメシア、生ける神の子です。多くの 苦しみを受けて殺されることなどあってはなりません。」となります。 マタイ 4 章にある悪魔の誘惑の言葉を見てみましょう。「神の子なら、これらの石がパンになるように命 じたらどうだ。」(マタイ 4・3)「神の子なら、飛び降りたらどうだ。」(マタイ 4・6)実はペトロも 同じようなことを言っているのです。「神の子なら、殺されないようにしたらどうだ」と。だからイエス は荒れ野で悪魔に「退け、サタン」(マタイ 4・10)と言ったように、ペトロに「サタン、引き下がれ」 と言ったのです。

    もし殺されないのであれば神のご計画である「三日目に復活する」ことを邪魔すること になるので「神のことを思わず、人間のことを思っている」と言われたのです。人を神から引き離す力で ある「サタン」という表現によってペトロに神のご計画を理解させようとしたのです。わたしたちも「神 のことを思わず、人間のことを思ってい」ないでしょうか。

 

    さて、イエスは弟子たちをご自分の受難と復活の道に従うよう招かれます。 一つ目は「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」ということです。自らを犠牲に して他者を救う道を選びなさいと言われています。苦しみを耐えてそれを乗り越えることができたときの 喜びは大きいものです。

    二つ目は「この世の命」を失ったとしても「永遠の命」を得るためにイエスに従って歩みなさいというこ とです。「この世の命」は大切です。しかし「この世の命」は限りあるものです。それよりももっと大切 なものとして「永遠の命」があります。イエスに従わないのであれば「永遠の命」を得ることはできない のです。 マタイ 4 章の悪魔の誘惑の言葉で 3 つ目の最後の言葉があります。「悪魔はイエスを非常に高い山に連れ て行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、『もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみん な与えよう。』」(マタイ 4・8-9)直後にイエスは「退け、サタン」(マタイ 4・10)と言いました。 「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得」もないのです。「この世の命」を失った 上に「永遠の命」をも失うことになるのです。目先のものに振り回されず、神に対する信頼と人に対する 愛を貫いて行きましょう。

 

<すべてのいのちを守るための月間(9 月 1 日~10 月 4 日)>

 

     最後に、2019 年に教皇フランシスコが来日して呼びかけられた「すべてのいのちを守るため」というメッ セージの実践の一環として、日本のカトリック教会は、毎年 9 月 1 日の「被造物を大切にする世界祈願 日」から、10 月 4 日のアッシジの聖フランシスコの記念日までを「すべてのいのちを守るための月間」と して定め、2020 年からこれを実施しています。日本のカトリック教会ではそのための祈りが用意されてい ます。「すべてのいのちを守るためのキリスト者の祈り」というものです。、この祈りをこの期間、日々 ささげてまいりましょう。

    それでは皆さんご一緒にこの祈りを唱えましょう。

 

『すべてのいのちを守るための祈り』

    宇宙万物の造り主である神よ、 あなたはお造りになったすべてのものを ご自分の優しさで包んでくださいます。 わたしたちが傷つけてしまった地球と、 この世界で見捨てられ、 忘れ去られた人々の叫びに気づくことができるよう、 一人ひとりの心を照らしてください。 無関心を遠ざけ、貧しい人や弱い人を支え、 ともに暮らす家である地球を大切にできるよう、 わたしたちの役割を示してください。 すべてのいのちを守るため、 よりよい未来をひらくために、 聖霊の力と光でわたしたちをとらえ、 あなたの愛の道具として遣わしてください。 すべての被造物とともに あなたを賛美することができますように。 わたしたちの主イエス・キリストによって。 アーメン。 (2020 年 5 月 8 日 日本カトリック司教協議会認可

2023.8.20

 

    今日の朗読のテーマはすべての人が救いにあずかることができるということです。

   イザヤは「主のもとに集って来た異邦人」が神に受け入れられる、と言っています。 パウロは異邦人がキリストを信じて教会の一員になるよう願っています。 イエスは異教徒であるカナンの女を、神に愛され神のいつくしみを受けるのにふさわしい者として弟子 たちに示されました。

    ところで旧約聖書、特に出エジプト記の中で『イスラエルの人々をエジプトから脱出させカナンの土地 に導き入れる』とモーセは神と契約を結びました。そしてカナンの土地の境に到着するまで荒れ野での 40 年間の生活をしました。カナンの土地に入った時にはそこに先住民がいました。イスラエルの人々の 一部はカナンに住み、定住生活を始めると先住民の神々の影響を受けるようになり、神から離れるよう になってしまいました。多くの人々が神から離れてしまったので、たびたび預言者たちはイスラエルの 民に自分たちの神に立ち返るように繰り返し警告を与えていました。カナンの地は異邦人の地であり、 この地に生まれたカナンの女が先住民なのかイスラエルの民なのかはわかりません。しかし、異邦人の 地に住む女性であるにもかかわらずこの女性は、「主よ、ダビデの子よ」と呼びかけています。「ダビ デの子」というのはイスラエルの王を表す言葉です。つまりメシアであり油注がれた者という意味です。 当時の人々がイエスをそう言っていたということを知っていただけなのか、あるいはイスラエルの神を 信頼しているからなのか分かりません。イエスもそれに対して何もお答えになりませんでした。 弟子たちが「この女を追い払ってください」とイエスに願います。イエスは「わたしは、イスラエルの 家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と答えました。そこでこの女性とイエスとのやり取 りが交わされます。

  女性の願いに対してイエスは「子供たちのパンを取って子犬にやってはいけない」 と答えます。ここでは『彼女を救いたいけれども、今はイスラエル人の救い』という使命のために自分 を抑えているイエスをマタイは描きたかったのではないでしょうか。まずイスラエルの民が救われるべ きだという思いがイエスにあるのは明らかです。すべての人が救われるのは、イエスが死んで復活した 後だというマタイの考えが反映されています。マタイが記述した時にはすでにイエスの復活の後ですか ら、福音書もすべての人のために記述してもよかったと思います。しかし、マタイの共同体はユダヤ人 の共同体だったので、まずイスラエル人が救われるという考えを述べた後で、異邦人の救いを述べる形 にしたのだと思います。逆にそうしたことで、この女性の信仰が浮き彫りになってきます。「主よ、ご もっともです。しかし」と言ってこの女性は反論します。その反論とは、子犬と称されている異邦人で ある自分もあなたの救いにあずかりたいということです。子供であるイスラエル人の救いは当然ですが、 子犬である異邦人もその救いにあずかりたいのです。 そこでイエスはこの女性に呼びかけて答えます。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通り になるように。」彼女の必死の思いとイエスへのゆるぎない信頼に対して、イエスの心が動かされたの です。イエスの弟子たちや最初のキリスト者はみなユダヤ人でした。ユダヤ人でない人の信仰がユダヤ 人を動かしたと言ってもいいでしょう。弟子たちも、信仰を持った異邦人との出会いによって、逆にす べての人に救いが及ぶのだという考えに変わっていったのではないでしょうか。自分たちがどのように 宣教していくかにとらわれるのではなく、そこに現実にいる人との出会いが大切なのです。わたしたち も自分の考えにとらわれることなく現実と向き合いましょう。神のご計画はわたしたちの思いを超えて変えられていくのかもしれません。

2023.7.3

 

  今日の福音の出だしは、一見したところわたしたちにとって違和感があると感じるところではない かと思います。モーセの十戒の中で『父母を敬え』という教えがありますが、いきなりそれに反す るようなことを言っているように思えるからです。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしに ふさわしくない。」これは十戒の『父母を敬え』ということに反しているのではなく、どんな間柄 でも対立は避けられないことであるということ。しかし、それでもわたしたちがイエスの福音にと どまることができるかどうかということが問われているのです。 家族を大切にしなければならないというのは当然のことです。家族を離れてイエスに従うというの は、親離れや子離れと似ていると思います。親元を離れて自立して生きていくということは人生の 上で必要なことです。いつまでも親にかばってもらって守られてずっと生きていくことはできませ ん。いつか親から離れなければならなくなるのです。親から離れて、あらためて親の愛を感じると きに新しい違った家族の関係が生まれてきます。自分の生き方を確立して、もっと大切なものを見 つけたときに、本当に家族を愛することができるようになるのです。 「自分の命を得ようとする者は、それを失う。」父や母を愛する者、息子や娘を愛する者、あるい は自分の十字架を担ってイエスに従わない者は、この世のいい生活、楽な生活だけを求めている人 と言えるでしょう。イエスは目先の利益にとらわれずイエスに従う人になりなさいと言っています。 今日の福音のあとの方の段落を読んだときに、自分にとって本当に受け入れることができるかどう かを考えてみましょう。具体的には最後の 42 節ができるかどうかを考えてみるといいと思います。 「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、 必ずその報いを受ける。」見返りを求めない愛、無償の奉仕、その中にイエスの弟子としての姿勢 があります。利益を無視して人を受け入れるということは簡単なことではありません。どうしても 自分の利益になるかどうかを考えて、その人を受け入れていいかどうかを判断してしまいます。こ の 42 節のことばのように行動できるかどうかがイエスの弟子として問われていることなのです。 マタイによる福音の最後の方に最後の審判の場面の中で同じようなことが描かれています。25 章で す。王は自分の右側の者に言う、「わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなた がたのために用意されている国を受けなさい。あなたがたは、わたしが飢えていた時に食べさせ、 かわいていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、 ろうやにいたときにたずねてくれたからである。」「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人 にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」今日読まれた聖書の言葉をわたしたちが受け入れることができるでしょうか。

2023.6.25

 

 今日の福音では「人々を恐れてはならない」「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れる な」と言っています。恐れるべきは「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方」なのだと言っています。 第一朗読でエレミヤは当時の人々から受け入れられなかったことが描かれています。エレミヤに対して も神は恐れることなく人々に神の預言を伝えよと言われます。それに励まされてエレミヤは神のことば を伝えていきます。 12 人の使徒たちにもイエスは恐れるなと告げています。「人々を恐れてはならない。」「体は殺しても、 魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。」「だから、恐れるな。」イエスの弟子であるという理由 だけで、迫害されるのです。確かに福音書が記された当時は迫害されていました。ここで、イエスは必 ず共にいて力を貸してくださる方であると信じることが大切なことだと言っているわけです。

現代のわたしたちには迫害ということはあまりないでしょうが、イエスをあかしする「恐れ」というも のはあるでしょう。自分の信仰が周りの人々に受け入れられないのではないかという思いはあるでしょ う。

 

 ペトロは 3 回イエスを知らないと人々の前で言いました。しかしイエスからはペトロに対してあなたを知らないとは言いませんでした。今日の福音では、「人々の前でわたしを知らないと言う者は、わ たしも天の父の前で、その人を知らないと言う」と言っていたのにです。イエスはペトロが深く後悔して涙を流していたことをよく知っていました。だからこそイエスはペトロに「あなたを知らない」というのではなく「わたしを愛しているか」と言われたのです。同じようにわたしたちに対してもイエスは すべてご存知です。少しでもわたしたちがイエスを裏切ることがあることはご存知です。しかし、イエ スがペトロに言われたように、いつでも「わたしを愛しているか」と問いかけておられます。「わたし を愛しているか」という問いかけは、神をどう愛したらいいかをわたしたちに問いかけるものです。

 

 今日福音の中で問いかけている 12 人の使徒たちに対する愛はわたしたちに対する愛でもあるのです。病 気や失業、犯罪、暴力、裏切りなどは日常的にあるもので、わたしたちに「恐れ」というものを引き起 こします。もちろん自分の身を守るために「恐れ」というものは必要であると言えます。問題はその 「恐れ」のために日常生活が振り回されて行くことです。本来すべきことができなくなることが問題な のです。イエスが「恐れるな」と言っているのは神に信頼して歩みなさいと言っているのです。本当に なすべきこと、いのちをかけても譲れないことは何かをよく考えて神に信頼せよ、と言っているのです。 勇気をもってイエスに信頼して歩むことができますように。

 

2023.6.4 

  

1334年に教皇ヨハネ22世が全教会で三位一体を祝うことを決定してから、主日のミサの中で行われるようになりました。もともと行われていなかったのはミサのたびごとに三位一体の神である父と子と聖霊を記念し賛美しているからです。あえて別に祝日を作る必要性がなかったとも言えます。とはいえ、救いの歴史の中で父である神から派遣されたイエスの復活と聖霊の派遣によって完成されたあとに、特別に三位一体の神をたたえることはふさわしいといえるでしょう。

 

今日の福音はとても短いところです。ここはニコデモとの対話ですから31節から21節までの長い対話です。3回の問答を通してニコデモはイエスがどのようなお方であるかを理解していきます。これはわたしたちにも向けられたものでもあります。16節は神の愛を述べているところです。ここに書かれているとおり、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」に世に与えられました。まずここに神の愛がわたしたちのために注がれているのだということが分かります。神は自分の力を誇示したいとか、宇宙を支配したいとか、自分の思い通りにしたいというような人間的な気持ちはありません。御自分の独り子をわたしたちに与えられたほどに、世を愛されたのです。「世」というのは、この世界です。この世界は今でも人間が自分のことだけを考えて、あるいは自分の属している仲間のことだけを考えている罪の世です。そのときには自分さえよければいいという世界になっています。その世の中でイエスは、病気で苦しんでいる人や貧しい人に手を差し伸べて、自分のときをそういう人々のために使いました。逆に権力を持った人々や律法学者などには自分のことばかり考えることを非難していました。そういう人々に対して神の力を発揮することではなく、十字架の死をあえて受け入れて死んでいきました。その姿は惨めなものでしたが、復活という出来事によって栄光を受けました。

 

17節では「世を裁くためではなく、世が救われるためである」と言っています。ところが18節では、世にいる「信じる者は裁かれず、信じない者はすでに裁かれている」と言っています。御子は救うために来たが、信じない者は裁かれていると言うのです。この裁きというのは神やイエスが裁くものではありません。自分自身が自分を裁くのです。自分自身で自分を罪に定めているのです。素晴らしく美しい有名な絵があったとします。この素晴らしさを知っている人はもちろん感動します。始めて見る人でも素晴らしいものであれば感動するでしょう。もし感動しないで大したことない絵だと思う人がいたらどうでしょう。残念に思いますね。そういう人とは一緒にこの感動を分かち合いたいと思っていても分かち合えません。自分で自分自身を罪に定めるというのはこういうことに似ているかもしれません。

 

 

イエスのすばらしさや神の愛を知っているわたしたちは、イエスと同じように生きていきたいと思っています。イエスを見て聞いて知っても、この人は偽善者だとか十字架につけられるのに抵抗しないなんておかしいという人は、イエスと同じようには生きていかない人でしょう。残念ながらその人は良い生き方を選ばないということで罪に定められている、あるいは自分で裁いているとすら言えるのではないでしょうか。しかし、イエスはそういう人に対しても救われようとされていました。すでに裁かれている人をもゆるそうとされました。それをわたしたちにも求めているのだと思います。イエスの生き方は、自分自身を人々に与えていく、あるいは寄り添っていくという生き方でした。それは神がわたしたちに独り子をお与えになるほど世を愛されたことに基づくものなのです。